※以下は2011年の東日本大震災時の活動に関する記録内容です。状況は異なりますが、参考となれば幸いです。

 

※「災害鍼灸マッサージプロジェクト」による東日本大震災被災地へのボランティア活動は、2011年12月6日をもちまして、終了いたしました。多くのみなさまのご協力、ご支援、誠にありがとうございました。

参加者からの声1


現地での活動に参加された方からの感想文をご紹介いたします。 

※ブログへの掲載順に最新のものから掲載・敬称略

 

 

【7月23日~25日】

 

はじめに、この度の東日本大震災でお亡くなりになられました方々に謹んで哀悼の意を捧げると共に、被災されて今なお困難な生活を送っておられる皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 

災害鍼灸マッサージプロジェクトに大阪府鍼灸師会の一員として7月23~25日に宮城県石巻市と南三陸町での鍼灸ボランティア活動に参加させて頂きました。
大阪府鍼灸師会では、浜田会長はじめ総括責任者の三木先生を含め有志7名のチームで活動に望みました。
「段取り八分!」言う言葉が有りますが、此度の活動が無事終える事が出来ましたのも災害鍼灸マッサージプロジェクトの橘川様、そして鍼灸師会では発起から諸団体との打ち合わせ、行程表作成、参加者との事前ミーティング等々多岐に渡りほぼお一人で頑張られた三木先生がおられたからだと思います。

私などはお膳立ての上に乗っかっただけだと恐縮致しております。
本当に有難う御座いました。

さて、23日朝伊丹空港に集合したわけですが、私は寝不足と緊張で体調は決して良くは有りませんでしたがドリンク剤をがぶ飲みで搭乗致しました。
仙台空港着陸前の眼下にはニュースで見たような惨たんたる光景が目に飛び込んできました。
そして着陸。滑走路をタキシングしているとこれまた滑走路脇に津波に没した小型機がガラクタの様に積まれていたのには驚きました。
空港ターミナルはまだ仮設で至る所がベニヤ板で覆われていました。

 

ミニバンをレンタルして一路石巻へ
高速も所々路面がうねっていてミニバンでの走行は少し緊張しました。

 

石巻チーム2名の活動拠点となる遊楽館に着くなりラジオから緊急地震速報のアラームが鳴り響きグラグラと揺れた時に、「初めて被災地に来たのだ」と自覚しました。
その後南三陸チームの5名は再び高速で目的地を目指しました。
一般道で南三陸町に近付くにつれて車の残骸が目に付き始め。
南三陸町の中心街に着いたときの見るも無残な光景は一生忘れられぬ事でしょう。

 

ベイサイドアリーナで器材を積み込み初日と二日目の活動場所である志津川自然の家に向かいました。
到着後、施設の方にお聞きしながら、早速器材の設営を行い、3名で施術を行いました。

 

最初の患者様からお二人目の患者様までは「何を話しどの様に接していいのか」が分らず凄くぎこちない患者様との対応になってしまいました。
しかしそれ以後、時間内で主訴を取り除く事を主眼に「何時も通り自然体で行こう」と切り替えてからはスムーズなやり取りになりました。
患者様と接して感じた事は、皆さん本当に明るく話して下さいます。しかし皆さん笑顔の中に憂いを感じるのです。
それは当然ですよね。皆様は心に計り知れないショックと不安を持っておられるのですから・・・。
しかし、何気ない会話の中に被災された方々の真の強さそして優しさを感じ取る事が出来ました。
一人の女性の方は震災当日妊娠9ヶ月、大きなお腹を抱えながら必死に津波から逃げられました。
その後無事に出産されたそうです。

現在は復興に携わるご主人を支えながら子育て、そして自ら避難所生活にもかかわらず炊き出し等のお手伝いもされています。
改めて母の愛情そして強さを再認識させて頂きました。
3日目は正午までと言う短い時間では有りましたが、中前民家で地元のお年寄りを中心に施術させて頂きました。
ここでは地元のリーダー的ご家族がおられ、事前にベッド3台に分けて予約をきっちりと取っていただき、受付業務までこなして頂き非常に効率良く施術が出来ました。
此処の集落は高台のために直接的な津波の被害は無かったものの、物資が無く食事も偏り高血圧等体調を崩された方が多かったようです。
しかしここのお年寄り方が関西の言葉で「はんなり」としていて私の方が凄く癒やされました。変な話ですね・・・。
何時までも施術を続けたかったのですが、飛行機の時間も有り予定通り正午で施術を終了し中前民家を後に致しました。

途中平成の森チームと石巻チームをピックアップして仙台空港へと戻ってきました。
そしてターミナルに入ってビックリ!
着いた時は仮設だった空港設備が全て復旧し素晴らしい空港に変わっておりました。
伊丹空港に着いて緊張が半分解け、バスと電車で帰宅した時にはさすがにぐったり。
南三陸町の海と山の美しさとお世話になりました方々に思いをはせながら床につきました。
私達の活動は、たった7名でたった3日間の活動ではありましたが、この志が次々とつながればきっと大きな成果を残すものと確信致しております。
最後になりましたが、災害鍼灸マッサージプロジェクトの皆様に心から敬意と感謝を申し上げると共に、大阪から志を共にした7名の先生方とこの活動に参加させていただきました事を私の誇りにさせて頂きたいと思います。
石巻市の皆様そして南山陸町の皆様の一日も早い復興を心よりお祈り申し上げております。

 

                                     公益社団法人 大阪府鍼灸師会   
                                          河南地域    北野 統大

 

                    『南三陸町活動報告書』

大阪府鍼灸師会災害鍼灸ボランティアチームリーダー:若杉昌司

  

第1日目(7月23日)
受診人数は7名で活動を終えました。午後診と長時間の豪雨と晩御飯の前後およびお通夜が重なり受診がかなり少なかった様です。蝿大発生時期と重なり鍼灸治療の妨げとなりました。

  

第2日目(7月24日)
受診人数は18名で活動を終えました。終日活動でしたが民放27時間テレビの動員には鍼灸治療は及ばず受診は少なかった様です。蝿の発生により鍼灸治療の妨げとなるのではと心配しておりました。しかし天候は晴れていて久々にすがすがしく通風を良くすることで充分に対応出来ました。

  

第3日目(7月25日)
受診人数は20名で活動を終えました。近くの仮設住宅での認知度は低く鍼灸師自らが外回りに出ました。世話人のいる地区では多大なご協力により治療を円滑に行うことが出来ました。

  

浜田会長・三木理事・松田理事・井上氏・喜多氏・北野氏。先生方のお陰様を持ちまして頼りのないチームリーダーを無事に務める事が出来ました。寛容な御心に感謝しております。合掌

  

『南三陸町の日の出』

7月24日午前4時過ぎから

確かに 空は 凪いでいる
確かに 海は 凪いでいる 

 

日の出を迎える水平線 

 

手を合わせる

 

真っ白な水蒸気
山頂から観た雲海に似て湾一面に立ち込めるとやがて揺らぎ始め町へと向かう

 

確かに 空は 凪でいる
確かに 海は 凪でいる

 

真っ白な水蒸気

一山は越えないほどに低く町を覆う黒い雲へとその姿を変えていく

 

涙があふれてとまらない
くるしい
せつない
いとおしい

 

一羽の海猫
ゆっくりと舞い下り翼を閉じて頚を傾げて覗き込む

 

『空と海は鎮めるから大地
(陸)に手を合わせることだけは決して忘れないで』

 

一羽の海猫
頚を水平線に向けて翼を広げゆっくりと舞い上がる

 

円く浮かび上がる日の出とそれに接点で交わる水平線

 

手を合わせる

 

 

やがて黒い雲は昇華した

 

                                                   合掌

 

災害鍼灸マッサージプロジェクト三輪氏、橘川氏、小河原氏、南三陸町アリーナ施設長S氏、現地治療家A氏、現地事務O氏及び中前民家の世話役Hさん親子にこの場を借りて厚く御礼を申し上げたい。

たった一度で終わることなく災害鍼灸ボランティア活動を実施することが大阪府鍼灸師会の天命だと思う

                                                       感謝

 

 

【8月2日~4日・南三陸町】                                      伊藤優子

 

 震災ボランティアとしては2回目の参加となる南三陸町に着いたのは、H23年8月2日の午後2時過ぎでした。
 途中、仙台駅からは東京からの参加の先生と二人で目的地の南三陸町に向いました。途中、まだ瓦礫のままの町並みをバスの中から見て、愕然としながら集合場所のアリーナに到着しました。
 前回参加したボランティアとは全く違う条件での参加と町並みにすっかり気持ちは、言葉とは裏腹に不安で一杯でした。

 

 17時30分からのアリーナでの治療のために巡回しておられた先生や地元の先生方も来られ、南三陸町での初めての治療の開始です。しかし、実際には何をどうしたらいいのかわからないままの見切り発車となり、カルテの記載場所を間違えたりして、迷惑をかけたり、何時も一人でマイペースで仕事をしているので、なかなか皆さんとのペースに会わせる事も出来ずに終わってしまいました。
 一人約30分長いようでもとても短く感じられる程に皆さんは疲れで筋肉の張りがすごく、これを30分で解すのは大変な仕事になるなと感じました。

 

 翌、8月3日は歌津の民家での治療に携わらせて頂きました。
 高齢者の方が多く、骨粗鬆症などのことも頭に置きながら細心の注意をしながら治療をさせて頂きましたが、中には一度、病院で診断だけでも受けられた方が良いかと思われる方もおられましたが、地域柄とか東北の方の性格とか、病院が復興しきれていない等の条件が揃い、簡単には病院には行けないとの言葉に返す言葉が見つかりませんでした。
 こちらも一人約30分の予定でしたが、なかなか予定通りに終わることが出来ませんでした。
 夕方からはまた、アリーナで昨日と同様に支援者の方を支援する形で治療に掛かりましたが、昨日同様に鍼治療を希望される方が多く、針治療をやるとなかなか一人30分の枠で終わらせるのが私には難しく思えました。

 

 翌8月4日は歌津中学の避難所での治療に当たりました。今回はベット無しで、マットレスでの対応でしたが、お尻を下まで降ろしてしまうと身動きがとれない方もおられ、前回は座位で対応とカルテの記載に座位での実施を進めたところ、座ってして貰ったことがないので、横になると言われ横になってはもらいましたが、却ってしんどかったのではないかと、後から後悔しました。
 こちらの避難所には、カイロの方が来られて、してあげますと言ってしてもらったら、肋骨を折られたという高齢の女性が、じっと座っておられました。同じく治療をする立場の人として、何も出来ないことが、なんだか申し訳なく思えました。
 何処で治療を行うにしても、ベッドは1台は必ずあるようにしてある方が、臨機応変に対応出来るかと思いました。

また、歌津中には仮設住宅もあり、そちらから来られた方は、避難所の方が寝られた。仮設住宅の床が波を打っていてまっすぐに寝られなく、朝起きるときに背中が痛くて仕方がないと訴えておられました。噂で、仮設住宅も業者によって出来の良し悪しがあると聞いていましたが、びっくりしました。この方にも鍼の治療をさせていただきました。
 この日も夕方からアリーナでの治療をさせていただきました。ボランティアに来て4か月テント暮らしの方をさせてもらいました。田舎の農家や漁師さんにはない、肩や背中の筋肉の張りに驚きを隠せませんでした。また反対に役所からの辞令で昨日から来ましたという方もおられ、今日は先輩に案内されて連れて来られましたとの事で、この方はどこも大丈夫なんですがせっかく来たから受けましたとの話しでした。と言われた通りに何処を何をしてもくすぐったいと言われ、ほぼ軽い指圧と軽擦だけで終わりました。それなら治療を受けずにこういう場所があるという見学だけにしてもらい、本当に治療を受けたいときに来ていただければ嬉しかったです。その方の分、一人でも他の方を治療出来たのではないかと思いながら、南三陸町での最後の治療を終わらせていただきました。

 

 私が個人的に困ったのは、言葉の壁です。友人に山形や仙台にもいますが、同年代で、東北の言葉であまり話しをすることがないので、言葉のコミュニケーションが上手くできないケースが多々あり、訴えを聞き取るだけで時間を費やしてしまった、ケースもありました。
 また、今回参加して、自分の見識の甘さと技術の甘さを痛感しました。親や亡き主人も同業で、何かあれば守ってもらい、田舎でのほほんとマイペースであえて何かを勉強することもなく仕事をしてきた自分の甘さに本当に痛感させられました。
 故に精神面にも弱く、現実の町の状態を見て自分が思っていた以上にショックを受け、帰宅後は不眠やパニック障害を起こすことになり、続けてボランティアに参加して行く予定が残念ながらもドクターストップがかかり、9月に入り、10月以降の短期間での参加なら大丈夫と言われるようになりましたが、中途半端なままで残念で悔しくてなりません。

 

 しかし、南三陸町で得た経験は私には大きく、もう一度自分を見つめ直し、何が自分に出来、適しているのかを考えさせてくれる機会になりました。

 

 南三陸町では、お世話になりました皆様、本当にありがとうございました。

 

 

 

【8月25日~27日・南三陸町、石巻市】                       鈴木忍

 

今回8/25、/26は南三陸町、8/27は石巻市でのPCATでの活動をさせていただきました。
たった3日間でしたが、被災者支援と支援者支援の両方を経験させていただけたことはとても意義のあるものとなりました。

愛知県で生まれ育ち、幼い頃から大きな地震がくるから気をつけよといわれ続けて育った私は、地震は恐ろしいものと刷り込まれています。更に沿岸部に住んでいるため、被災地の様子をTVの映像で見るたび心を痛めておりました。
地域のチャリティイベントでマッサージブースをオープンしたり、義援金という形で支援していましたが、直接的な支援をしたいという願いはずっと持っていました。
今回、患者さんや家族に迷惑をかけましたが、行ってよかったと思っています。

 

南三陸町では仮設住宅の集会場で被災者に対する施術。石巻ではPCATの活動で、支援者への施術を行いました。

 

3日間はただ夢中で訪れる方々の施術をこなすのが精一杯で、落ち着いて今振り返ると「もっとこうしたほうが良かったのではないか」などと思うことがありますし、帰ってしばらくしてからは精神的に落ち込みもありました。

 

南三陸町では高齢男性に「定期的に来てほしい」と言われました。地元の先生のチラシをお渡ししました。このような橋渡しがもっとできたらよかったと思います。

 

石巻では地元の方以外に県外からいらしている方々も多く、被災者とは違うストレスでお疲れの様子でした。PCATのスタッフも長期の滞在でかなりお疲れでした。

 

私は3日間という短い期間でしたが、一番大切なのは「体力」と実感しました。
長期戦において一番必要なものです。

 

被災地域でがんばっておられる方々が沢山いらっしゃることを常に心に留めて生活しております。いつか「復興した」というときに遊びに行くことを楽しみにしています。それまでは陰ながら支援していきたいと思っています。

 

【8月31日~9月2日】                          伊藤 政彦

 

8月31日~9月2日の日程で災害鍼灸マッサージプロジェクトの支援を受け宮城県南三陸にはりきゅう治療のボランティアに行かせていただきました。

 

活動一週間前からコーディネーターと仙台入りの手順から宿やタイムスケジュールを打合せに入る。
レンタカーの返す時間・ホテルの予約などすべてコーディネネーターの方と仙台入りの時間・帰りの時間・レンタカーの手配(荷物が積める物やナビが付いている物)細かく話を進めて決めていきました。

 

東北新幹線8:56分東京発~11時前後仙台入り
仙台駅は屋根などは少し倒壊しているものの街自体は特に地震で被災した様子はあまり見られなかった。
12時駅でレンタカーを借り一路南三陸へ。
昼食を途中で食べ他の先生が活動している避難所涌谷町に行き先生と合流する13:45分。ココは石巻の丁度上の方になる。先生や治療機材を乗せ南三陸町へ。
途中被災現場を目の当たりにする。とても心が痛んだ。地元に戻った時皆さんに現状を知らせるためしばし活動記録写真を撮った。
途中女の子が最後までアナウンスし続けた市の中心にある防災対策庁舎がありました。今では南三陸のシンボルとなりつつあり大きな献花台も設けてありました。

 

16時過ぎ南三陸町高台にあるベイサイドアリーナへ到着。ここは今は南三陸町の拠点となっている。テニスコートに市役所・警察・消防(病院)がここに集結している。
ボランティア総合受け入れ(災害ボランティアセンター)もここにありました。
17時ベットや治療スペースを作り治療開始。被災した市の職員さんを治療させて頂く。
市の職員中には家族を失ってしかも、ほぼ無休で働いている方や、一緒に働いていた同僚が流され亡くなった人も多い。
治療している途中で予震みたいなものがあった。とても敏感に反応しているのが印象的だった。
19時半片付け20時撤収。21時前宿南三陸ホテル観洋に到着チェックイン、ミーテング&食事~解散
この日は、テレビには見ていたけどこれが本当の現実なんだと改めて痛感。現地の人の怒りや悲しみは当分忘れることは 無いだろうと思う。治療人数約10人前後 術者2名

 

9月1日
8:30分宿から車で40分の所にある避難所だった所、公民館で治療させて頂く。この日も強い雨が止まない。
ベットや治療スペースを作り10時治療開始お年寄りの方々がぼちぼちと集まって下さる。12:15分食事はコンビニおにぎり13時午後の治療開始。16時撤収。
ココでは、ほのぼのとした中、田舎の暖かいお婆ちゃん方を治療させて頂いた。治療した後もすぐに帰るとかではなく、周りの皆さんと談話したり私たちに話しかけて下さったり周りの気遣いもさせており地域の雰囲気も良くとても印象的な公民館だった。術者2名

 

南三陸町ベイサイドアリーナへ
17時ベットや治療スペースを作り治療開始被災した市の職員さんを治療させて頂く。
19時半片付け20時撤収。21時前宿に到着、ミーテング&食事~解散
職員さんで休日もなく働き続け、しかも食べる物も毎日ボンカレー等を食べ続けていると言っている方もいた。治療人数20人前後 術者5名

 

9月2日
9時ホテルチェックアウト~
この日は雨がすごく道自体も水たまりや陥没している所もあり車が思うように進めなかった。
ようやく10時到着波伝谷仮設住宅にてベットや治療スペースを作り治療開始。ここはアリが多く発生している。12:30食事コンビニおにぎり。13:15分治療開始16:20分治療終了離脱。
ココの仮設住宅は山奥にあり足場も悪く夜は出歩けそうもない感じでした。車が運転できないと山下にもいけない。お年寄りはどうするのか?
治療最後の撤収時間ぎりぎりきた患者さん40代女性で、すごいストレスを持った感じの方だった。この患者さんは午前中一人目の患者さんでした。20分のマッサージの治療で症状が少し改善したもののとりきれてない様子。こちらとしてもまた来てほしいと思っていた。鍼は前回の強刺激のだったのか否定的で二回目は何とか置き針と温灸をさせてもらえた。治療後強張っていた表情が一変笑顔に変わった。何度も又何時来るの?又必ず来てね! と念を押された40代女性。治療人数20人前後 術者2名

 

治療終え一路仙台へ20時仙台へ到着、車の走行距離366㌔東北新幹線20:45分~22:30分東京駅自宅に23時到着

 

現地のニーズとして:被災地に治療に当たる場合マッサージでも主訴が取れないと難しい。マッサージを希望する人が多い。鍼灸をやってほしい人は少ない。強刺激はNG。お灸はできない場所がある。治療時間は15~20分。治療途中虫が来るので蜂や虫が苦手な術者は向かない。

 

短く早い3日間であったが被災地の地元の方々の気持ちをわずかではあるが共感できた。この気持ちを胸に東京でも今まで通り続けて支援をして行きたい。

 

 

【7月23日~25日】                              喜多伸治

 

任地は石巻の要介護者の避難所でした。朝9時半発の飛行機で仙台まで行き、そこからレンタカーを利用して13時半には現地に到着しました。
同じ大阪府鍼灸師会のもう一つのチームは、石巻で私達2名を降ろしてそのままさらに1時間ほど北上し、南三陸町まで行きました。(南三陸では27時間テレビが来ていて、イベント中は患者さんが全く集まらなかったらしいです(^^;))

 

任地では土日月の3日間、大阪からの私達2名と茨城県から1名鍼灸師が、引受先のPCAT(日本プライマ

リ・ケア連合学会 東日本大震災支援プロジェクト)の皆さんと行動。宿泊所が一緒で色々とお話をさせていただき、施術もして鍼灸に興味持ってもらえた(約一名)ようです。
要介護者の避難所ということで特殊になると思いますが、避難者の施術はせず看護師や介護者、ボランティア等のスタッフの施術のみでした。ただ、スタッフ自身も大なり小なり被災者で、詳しい話は聞けませんがやはり色々あるようです。

 

3日間3名でのべ90数名とよく働きました。石巻では鍼があまり盛んではないようで、初めての方も多く施術しましたので、鍼の普及啓蒙にも役だったと思います。(たぶん)

25日深夜3時51分に震度5弱の地震があり、さすがに目は覚めるものですね、私含め皆さん起きて少しごそごそしていましたが、何事も起こらないのでそのまま寝ました。
携帯に「エリアメール」として、地震速報が入ってきます。こんな機能有るの知りませんでしたが期間中2回入ってきて、事後確認であってもちゃんと誰かが把握してくれているという安心感がありました。携帯のワンセグテレビやラジオも便利だということです。私もワンセグ観ようとしましたが大阪のチャンネルになっていて、寝ぼけながら設定しようとしましたが出来なくて諦めました(T_T)。

 

2011/7/23
0710 自宅出発!
0840 伊丹集合 空港でエタノール取り上げられる。(医薬品との記載があるボトルならOKとのこと)
0930 伊丹発JAL 飛行機小さく若干怖い
1045 仙台着 日産レンタカー 高速は道が波打っているところもあり、時々ジャンプ。
1330 任地石巻「遊楽館」着。周囲は被害をうかがえないのどかなところ。早速施術。
1720 施術終了。PCATのシャピロさんと茨城の鍼灸師、藤田さんに乗せてもらい涌谷町の宿舎へ。
食事は近所の店で。風呂は完備され、PCATは夜9時から利用できる。就寝は11時過ぎ。

 

2011/7/24
0700 起床。朝食はその辺にある物を好きに食べてくださいとのこと。
0750 簡単なミーティング
0800 出発

0830 遊楽館着
0840 夜勤明けの人から治療開始。昼食は弁当。この日はピザとお握りでした。
1720 治療終了。石巻沿岸部へ鍼灸師3名で行く。
2030 夕食済ませて宿舎着。風呂に入って、鍼に興味を持ってもらった医師とビールを飲みながら話する。
2400 就寝

2011/7/25

0351 地震 震度5弱
0700 起床、朝食、ミーティング
0840 治療開始
1340 治療終了。弁当食べて、片付けしていると南三陸チームが迎えに来てくれたので、大あわてで出発。
1730 仙台発ANA 仙台空港が本日新規開店、というか、定期便の復活だそうです。きれいになってました。
0920 伊丹空港で軽く打ち上げして、自宅着。



【7月29日~30日】                                海老根 妙子

 

 

今回私は、練馬区鍼灸師会の方々とともに活動に参加しました。当初は宮城県の南三陸町での活動予定でしたが、最終的には、練馬区鍼灸師会からの5名のうち、1名は南三陸、4名は石巻での活動となりました。
石巻は、要介護者の避難所である遊楽館で、そこの医学的管理をしている「日本プライマリ・ケア連合学会 東日本大震災支援プロジェクト(PCAT)」の一員として、医療スタッフのケアを担当しました。

全ての指示はPCATスタッフから受け、宿泊もPCAT宿舎でした。活動場所の遊学館は避難所ではありますが、介護施設的な所なためか、高台にあり、空調その他設備は整い、被災地に来ている感覚は全くない所でした。施術場所も、専用の部屋を与えられ、ベッドやマットレス、バスタオルなども借り、基本的に一人20分の予約制で灸以外の方法での治療をするというものでした。
PCATでの活動の特徴は、被災者にはかかわらず施術相手は避難所で働くスタッフであること、現地までの交通費補助があること、宿泊はPCAT宿舎で、活動中の食事も用意されることでしょうか。 あまりに恵まれたボランティア環境に違和感すら覚え、同じ時の南三陸での活動との違いを知り、愕然としました。

災害鍼灸マッサージプロジェクトを通じて多くの方が被災地で活動しています。今回行って話を聞くなかで、現地でのケアは継続が大切だと痛感しました。交通費や宿泊費などは、HPにもあるように基本的には自己負担です。今回私たちはとても恵まれた条件での活動となりましたが、これから数年単位で活動を継続し、できるだけ多くの人がかかわれるようにするには、やはり活動費用等の自己負担軽減が大切と感じました。

たとえば、補助のでる活動の場合でも、その清算は派遣元のプロジェクトが一括管理し、活動者全員に一定の割合で割り振る、鍼灸や按摩マッサージ指圧の会がプロジェクトに対して活動援助金を出す、学生は運転や補助でかかわれるようにするなどです。
また、避難所のスタッフのケアは、長期滞在が難しい我々にも活動しやすく現地でも受け入れられやすい分野です。 実際に治療のできない学生にも補助的仕事はたくさんあると思います。常に3名程度のチームを作り、多くの人が少しずつ、今の自分にできることをやっていけるような、無理なく参加でき、継続性のある活動にしていかなければならないと感じました。

そのためにも、個人の善意に任せるだけでなく、業界が団結して、情報を一括管理できるような組織をつくることが大切ではないかと感じました。今回も、2つの団体にかかわっていたため、直前の現地にも正確な情報が伝わっていませんでした。現地に赴くことも大切ですが、事務局の性格で迅速な情報がどれほど重要か。自分のできることのひとつとして考えていかなければならないと思いました。
とても短い時間でしたが、災害鍼灸マッサージプロジェクトの方々をはじめPCATの方々には大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

*後方より
⇒宿泊費や交通費などの活動費用について、当プロジェクトでは補助を捻出する目的で、募金の呼びかけや助成金の申請を行って参りました。
そのため、当初より、宿泊費、交通費の領収書の保管をHP上でお願いしております。
現在は、HPにも掲載しましたように、活動開始以降の全ての参加者へ交通費、宿泊費の全額補助が可能となっておりますので、ご確認ください。
また、継続の重要性を感じられたとのことで、ぜひとも現地への再参加、また後方支援への参加をお願い致します。

 

 

【5月15日~16日】                                  佐合基樹

 

私が災害鍼灸マッサージプロジェクトに登録を申し込んだのは4月末のことでした。
仙台からほど近い岩沼、名取地区での活動を内心希望しておりましたが、活動予定の5月15日までに撤退をされ、災プロ事務所の方から、日本プライマリケア連合会への登録を勧められ、気仙沼で2日間の活動に従事してまいりました。

 

被災地の方々は生活環境が満足できるレベルにあるわけではないですが、少し落ち着いた雰囲気と諦めに似た感情が感じられ、日々ボランティアが入れ替わり立ち替わり出入りしているので、また違った人がいらしたのかな?といったぐらいの反応を感じました。
とはいえ 名前、出身、鍼灸師であることを出来る限り笑顔で(ひきつっていたかもしれませんが)挨拶して回りました。

 

初めての被災地ボランティア活動において各種注意事項や心がけ等が記された記事などに一通り目を通し、現地に向かったのですが、自分にできることに特別なことはなく、出来ることしかできません。日常の仕事と変わることなく頑張ろうと活動しました。
あえて気をつけたことは、鍼灸師としてできることを伝え、治療行為をしなくとも体調のこと以外でもなんでも話を聞くこと。
施術記録をなるべく詳細に記し後任の先生方にバトンを渡すこと。
この2点でした。

 

被災地の方々にとって必ずしも満足する施術とはいえなかったかもしれません。
わずか2日で何が出来、何を感じることができたのかと活動を終えてから考えても充実感にはほど遠く、ただ目の前のことをこなしただけで期間の短さに反省さえ覚えました。
しかし、多くの先生方がその後も継続して活動され、その地の先生方に引きつがれていく手伝いが少しでも出来たと思い被災地を離れました。

 

この2日間は後から考えれば軽い興奮状態でした。睡眠は浅く疲労感は少なく、やる気だけが先行していました。帰宅後に日常生活や業務に差し支えるような心身の疲労が出てきたわけではないですが、わずかな日程でもそれなりのマイナスな反応が出ました。長期にわたる活動をされる先生方はそれ以上のことでしょう。離任後のケアは必ず想定しておいたほうがよいのではと思います。

 

理想主義と笑われると思いますが、被災地での鍼灸マッサージには、ある程度の方法論が必要なのではないかとうっすらと感じました。どうしても先生方の技術差が生じ、患者となった方々に一定の効果が得られないことが時にはあるかと思います。その効果の平均ラインを保ちつつ、上乗せはそれぞれの先生方の技術で補う形が取れれば一層よいのではないかと感じました。なかなか難しいことではありますが。

 

それ以上に、このような状況では少しでも寄り添い、話を聞き、触れることなどでのトータルな癒しが最も大切で、その先に治療技術があるものであろうと思います。

 

私は個人院で一人で仕事をしています。
休んで活動することにはためらった部分もありますが(正直にいえば費用、売上です) 、恰好つければ患者様のために休めない!なのですが、皆さんは口々に
「御苦労さま」 「私の代わりにいってきてください」
などと非常に好意的に受け取ってくださいました。そんな意味では一時的なマイナスなど全く気にならないどころかプラスに転ずるような活動であると思います。

 

迷われておられる先生方、是非そのお力を存分に発揮できる場所へと一度体を運んでください。後悔することは微塵もないはずです。

 

最後になりましたが被災された方々へお悔やみとお見舞いを申し上げ、一刻も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

 

 


【7月29~30日】                                    藤井伸康

 

当初、28日の夜11時頃、仙台行きの深夜バス新宿を出発して仙台からはレンタカーで勇んで現地までカーナビ頼りの道中というわけでしたが、正直、土地勘もなくたいへん不安でした。
しかし、直前に震災鍼灸マッサージプロジェクトの担当の方からお電話があり、29日の盛岡行き始発の新幹線で仙台までいらっしゃるようとご連絡がありました。
そのとおりに仙台まで着くとPCATの方が改札口におられ、車で送っていただけたのでホッとしました。
 

活動時間 29日:11時~17時 鍼灸師2名 23名施術
活動時間 30日:8時30分~16時 鍼灸師4名 31名施術

 

施術を受けられる方は医療関係の看護師の方が多いのでだいぶ疲れているご様子でした。
また、マッサージや電気治療はやったことがあるがここへ来て鍼は初めての方が以外に多いようでした。
鍼が初めての方は、鍼=こわい?といった先入観をお持ちの方が多い中、我々より一足先に遊楽館で施術をしてくださった災プロの鍼灸師の先生方が怖い先入観を取り除いていただいたお陰で私たちは、楽に施術をおこなうことができました。

 

これからも復興の日まで、鍼灸施術のリレーを絶やすことなく続けていけたらと思います。

 

 

【6月30日~7月2日】                            朽名宗観

 

●はじめに
 宮城県南三陸町で6月30日から7月2日までの間、災害鍼灸マッサージプロッジェクトのよびかけに応じてボランティア活動に参加しました。
 南三陸町は志津川と歌津とが合併してできた町ですが、どちらの地域も町の中心部は津波によって壊滅的な状況となりました。震災直後、海岸から四百メートルしか離れていない志津川病院の屋上からヘリコプターで入院患者が救助される映像や、防災対策庁舎から若い女性職員が津波警報のアナウンスを最期まで続けて自らは命を落としたことなどは、ニュースで度々報じられたので周知のことと思います。
 活動期間中、東京からの鍼灸マッサージ師が私を含めて2名、現地の治療家1名が、避難所となっている民宿、合宿施設、一般の民家、町役場仮庁舎の会議室、アリーナ(体育館)のトレーニング室を会場に借りて、1日に合計で12〜26名程の治療に当たりました。治療に来られたのは、主に避難所にいる被災者と町役場の職員です。
 以下に活動中に経験および見聞したことについて記します。

 

●避難所の民宿・泊崎荘での活動
 最初のボランティア活動の場、歌津地区の岬にある民宿・泊崎荘に到着すると、宿のマイクを使ってボランティアの鍼灸マッサージを行うアナウンスをします。避難している方たちが、間もなく治療室にあつらえた広間に集まり、治療をはじめました。
 主訴に肩凝りや腰痛が多いのは予想されたことですが、仮設住宅に入る人も増え、次第に避難所の住環境も底上げされているようで、床に毛布を敷いて生活するような場所から、畳や布団があり、質の高い食事の出る民宿やホテルに移り、震災直後の過酷な状態からは脱しつつあるようでした。患者さんの一人から、「前の避難所はたいへんだった、それに比べるとここは天国ですよ」という声を聞きました。
 震災によって生じたさまざまな愁訴と同時に、震災前からあった慢性的な持病による不調を訴える方もいます。しかし、地元の治療院は被災してまだ再開しているところが少なく、「からだの痛いところや調子の悪いところを治してくれる人たちに来てもらえるのが何よりだよね」と言われました。このように治療活動の隙き間を埋めることは、われわれがボランティアとして働く意味のひとつと言えるでしょう。

鍼灸になれている人はむしろ少なく、鍼灸を普段経験したことのない人にはマッサージから入り、接触鍼や少し刺入する程度の鍼治療にうつってゆくという方法をとり、鍼に対する警戒心を取り除きながら治療しました。鍼は絶対にダメ、マッサージが良いという方には、鍼は無理に薦めません。
 御主人のお母さんを震災で亡くしたという中年の女性が治療の合間に、まだ遺体が見つからず、3ヶ月たったのでもう死亡届は出せるけれども、御主人はまだその死を受け止められないようで、「もうすぐお盆だけど、うちは今年はやらないつもりだ」ともらしていました。

 

●各地から集まる役場職員を施術
 夕方5時過ぎからは6月30日から7月2日まで連日、町役場の職員を主な対象とした施術を役場仮庁舎の会議室とベイサードアリーナ・トレーニング室を会場として行いました。部署によっては夜遅い時間まで灯のついている部屋がありますが、建設課はそのひとつで、治療に訪れるのも建設課の方の姿が多く見られました。
 職員の名札を見ると、地元の方たちばかりではなく、東京都や川崎市などから派遣されていることがわかり、役所の業務をこなすために各地から応援が集まって来ています(巡回しているパトカーのナンバープレートにしても、全国の地名が記されています)。そのため、震災直後のように庁舎そのものを失って、地元職員が喫緊の業務を多く抱え、徹夜が続くといった状況ではなくなりましたが、肩背の凝り、腰痛、膝痛などの愁訴のほかに、頭痛、不眠、花粉症などを訴える方もあります。瓦礫撤去などの労働を続けている消防隊員が施術会場に来ましたが、勤務あけの時間とこちらの施術時間が合わず、予約を見合わせることになったのは残念でした。

この夕方の施術には、地元の柔道整復師であるA氏がボランティアとして加わりました。A氏は志津川で開業していましたが、治療院を失ったばかりでなく、奥さんを亡くしています。流されなかった工場の建物の一角を借りて、治療院をいちはやく再開しました。仮設住宅にいるとのことなので、住み心地を尋ねてみると、「良いですよ、けっこう広いですし。でもひとりなのは、さびしいですれども」という応えがあり、さらに「妻が生きていれば、二人でこの土地を出ることも考えたかもしれませんが、亡くしたのでここから離れられなくなりました」と笑顔をたもちながら話します。一見、明るく見える表情のかげに悲しみを秘めている方としばしば出会うことになるのが、被災地です。

 

●震災直後の様子を聞く
 2日目(7月1日)は歌津の港地区にある民家を借りて施術しました。この地区の世話役をつとめているHさんが、あらかじめ近隣に住む方たちにわれわれの来訪を告知し、予約の受付係をして下さったため、午前10時から午後3時までの間(途中1時間の休憩)に続々と集まる方々をスムースに施術することができました。
 患者の訴えることは、水汲みなどによる肩背や腰の筋疲労、震災後、1ヶ月して起こるようになった不眠・食欲不振・頭痛、無事だった自分の家に被災した親戚が避難して来て、食生活が変わって体重が6キロ程減った、職を失ってから感じはじめた頑固な首の凝り感など、からだの不調にしても震災をきっかけにした心因性と思われるものが多く、精神安定剤を服用している人もめずらしくありません。
 仏間を借りて施術にあたりましたが、80余才のお年寄り(女性)がその部屋に入って来ると、まず仏壇の上に掲げられているこの家の先代の遺影に合掌しながらお辞儀をされました。この方からは、主訴である肩凝りと腰痛の治療をしながら震災直後の生々しい様子を伺うことができました。
 家を流された人たちは公民館へ避難し、家が無事だったとしても水道・電気・ガスがすべて止まってしまい、「皆、眼の色が変わっていました」と言います。震災当日、長い間使っていなかった釜を出して米を薪で炊き、握り飯をつくって避難所に持ち込みましたが、次第に他の人も薪で米を炊くことを覚えたそうです。震災後の2ヶ月間は自治会長のリーダーシップのもと、避難者もそうでない人も毎朝、公民館に集まって会合を開き、「心をひとつにしてやってきました」とのことでした。

船大工だったこの方の御主人は、停電で使えなくなった井戸の電動ポンプをはずして、つるべを造って水を汲み上げられるようにし、零下5度くらいまで下がった寒気の中、作りおいてあった竹炭を燃料にして暖をとったそうです。現在のように近代的なライフラインが整っていなかった時代を生きて来たお年寄りの経験が、力を発揮しました。また、この御主人は多くの漁船が流されたのを見て、長い間、やめていた船大工の仕事を復活させ、木製の和船造りをはじめたといいます。

 

 

●漁業再開に向けて
 午前の治療を終えた昼食時には、患者さんから自分の畑で作ったじゃがいも、いんげん、メロン、そしてこの地方独特の手作り菓子である〈がんつき〉の差し入れがあり、それを頂きました。今回の活動期間中、食事はコンビニのお握りが主だったため、土地の産物を手料理で口にすることができ、もっとも充実した食事だったと言えるでしょう。
 この地区は漁業と農業をかねている家が多く、長男のほとんどが家業をつぐ慣習がまだたもたれています。漁業の再開の可能性についてHさんに尋ねてみると、「もうはじまっていますよ。船を流された人は北海道に買い付けに行っていますし」ときっぱりとした口調で語られました。
 残った船が海で操業している姿は、われわれも見かけましたが、水揚げされた魚のうち、アイナメだけは買い手がつかなかったそうです。アイナメは海底に棲息しており、沈んだ遺体をつついているのでは?と懸念されたからですが、このようなこともいずれ払拭されるでしょう。7月入りしたこの日、志津川沖で名産品のミズタコ漁が、震災後初めて再開され、高値で取引されたというニュースも後で聞きました。

 ちょうどこのとき、NHKのテレビ番組が、北海道の沿岸にまで流されていた歌津の船が見つかり、持ち主が大型トラックで回収に来た姿を報じていました。私たちは話をやめ、自ずとテレビに眼を向けました。その持ち主はインタビューに応えて漁師としての船へのひとかたならない思いを告げていましたが、Hさんもよく知っている人で、「○○さん、北海道まで行ったんだねえ」とつぶやいていました。ここはニュースに登場する人が、身近な人であることがめずらしくないまさに「現場」なのです。
 カキやワカメなどの養殖業の再開への動きも、全国からの支援者を募り、収穫された産物を支援者に還元するというシステムを興すことなどで具体的にはじまっています。いろいろな難しい課題はあるでしょうが、「海を離れる」ことを考えるよりも、海の仕事を続けることに強い意欲を持っているように思われました。漁業はもとより人間がコントロールできない自然を相手にする仕事です。漁師はそのことを身にしみてわかっており、今度の津波は想定をはるかに越えるものだったとはいえ、たとえ思い通りにはならないことが起こったとしても、それを受け入れながらまた海に向かうといったことは、これまでもずっと繰り返して来たことなのでしょう。

 また、東北地方は縄文文化が栄えたことで知られていますが、南三陸町にも遺跡が残っており、古い神社と縄文時代の遺跡は、無事なところが多かったと聞いていたので、Hさんにその点について聞いてみました。すると、「そうです。でも、このあたりにあるお寺二軒は、どちらも流されました。そのうちの一軒は、住職が逃げる時にふりかえって見たら、本堂が土台から浮き上がってぐるぐる回転していたそうです」といいます。
 そして、それに続く話では、震災後にその住職が宗務本庁からどんな支援が必要かと聞かれたので、本堂の再建を要請したところ、フリ−メースンの寄付でプレハブの本堂がすみやかに再建されたとのことでした。フリーメースンは鳩山由紀夫前首相も関係していると言われる国際的な秘密結社で、鳩山氏が首相就任時に掲げたスローガン「友愛」はこの団体の信条だといわれています。私はこの地でまさかフリーメースンの名前を聞くことになるとは思ってもいませんでした。

 

●被災者の交流の場「平成の森」
 歌津地区に「平成の森」という大規模な宿泊施設やキャンプ場、および運動場や室内運動施設を備えた多目的施設がありますが、今では被災者の避難所となっており、仮設住宅も建設され、入居もすでに済んでいます。元来は地元の人たちが夏場には涼みに来るような高台にあり、環境的にも恵まれているところですが、仮設カフェがあり、炊き出しや音楽家などのボランティアも訪れ、被災者が情報交換や交流するひとつの拠点となっています。非日常の中の日常が営まれ、子供たちが駆け回って遊ぶ姿やコンサート会場から響いて来る音楽にどこか〈祭り〉に通じるような気配が感じられました。
 そこが鍼灸マッサージの施術会場となった日、ちょうど自衛隊員が引き上げるところに遭遇しました。見送りに出た大人にまざって、迷彩服のような服装をまとった少年の姿が見られました。おそらく彼にとっては、自衛隊員はあこがれの的であり、ヒーローにちがいありません。地元の人に震災直後からの多岐にわたる自衛隊の活動に厚い敬意と感謝の念が浸透していることはよく聞くところですが、その一端が垣間みられたシーンでした 
 ここでの施術にはこの施設に避難している方ばかりではなく、仮設住宅の方も訪れました。ある年配の女性の患者さんは、大津波を志津川病院のそばの冠婚葬祭式場の会館で経験したということで、主訴は下肢の痛みでした。津波がおさまってから町の瓦礫の中を避難所まで2時間ほど歩いて以来、痛みが消えないとのことです。自分の家が流されていることもすぐにわかり、一変してしまった町の惨状を目の当りにしながら、脚を運んだ時の心情は想像に余りあるものがあります。それから3ヶ月が過ぎ、外傷があるわけでもなく、今でも残るこの下肢の痛みには単なる筋疲労とは違った、精神的な要因があるように思われました。
 津波によるまさに「言語に絶する」ことが起こった町ですが、ガソリンスタンドの立て看板に大きく「津波のバカ」と書かれてあったのが印象に残っています。
 そのガソリンスタンドは(といっても南三陸町のどのガソリンスタンドもそうですが)、元のようにきちんと再建されているわけではなく、給油機が2台あるのみで、屋根も事務所の建物もなく、とりあえず給油ができさえすれば良いといった応急の状態です。

  文字は黒のインクにより手書きで書かれていましたが、もちろんイタズラ書きではなく、明らかにお店のメッセージとして表示されていました。言葉を失った果てにそれでも何とか言葉にして気持ちをあらわそうと思ったら、とてもシンプルなこんな言葉に行きついたということでしょうか。
 私が滞在したホテル観洋はその名の通り、志津川湾一帯の海を望むことのできる、迫り出す岸壁に建てられた、白壁がひときわ目立つ大きなホテルです。1〜2階部分は震災被害のため使用不可となっていましたが、3階以上は被災者の避難所となり、一般客も宿泊できるようになっています。節電のため電灯が控えめになっており、夜の館内はうす暗く、水もトイレも使用制限があります。風呂については大浴場は利用できますが、各部屋に備え付けられたユニットバスは利用できませんでした(7月はじめ現在)。
 ホテルの展望台のようなロビーから目の前に広がって見える、穏やかにしずまった海は、7月の強い陽光に照らされて青く美しく輝いています。町を飲み込み、住んでいる家を破壊し、身内や知人のいのちを奪った大津波をもたらした海は、この土地に生きる人々に太古から豊かな恵みをもたらし続けて来た、母なる存在でもあります。これからの町の復興も、この海を抜きにしてはあり得ないことでしょう。

 

 




【活動報告:南三陸町】7月5日-7月8日

 

他人ごとではなく、どこまで自分のこととして考えられるか。
今まで自分が決して得意だったわけではないテーマが、今回の震災以後、大きく問われていました。
治療家として。治療家以前の人間として。

 

今回、南三陸で合流し、そこの一切を取り仕切っていらしたプロジェクト・スタッフの小河原先生と橘川さんは、被災当事者たちに対し「よりそって自分たちのこととして考える」ことを極めた精神で行動しているお二人でした。
もちろん、まだお会いしていない発起人の三輪先生はじめ、これまでの4ヶ月間のスタッフの方々の行動力と献身的な精神も推して知るべし。
私が最も尊敬するタイプの方々です。

 

被災者たちがどれだけ大変かを知ろうとする想像力は、現地の治療家先生たちへの思いやりにも発展します。
もともとあった治療院10軒ほど全てが流された町で、先生方を探し出し、ボランティアと一緒に治療してもらって、今後のための顔つなぎをする。
それこそ、被災者でもある先生方のお仕事にとっても、住民方の健康にとっても、必要になってくる配慮だが、通例の単発的な支援では、できなかった発想です。
ともすると「やってあげたんだからこのくらいでいいでしょう」と、やや上からの立場になりがちなところを、あくまで謙虚に、地元を荒らさないように、もう一度掘り起こし、できれば種が見つかれば蒔いて「差し上げる」という、治療家以前の、偽善にならない慈善事業の真髄を見させていただきました。
作業の少しの合間を見つけては、地元の先生のチラシをつくりコピーし貼りに回る。
ボランティアセンターのスタッフや行政職員さんなど各方面への申し送り・周知徹底。
日替わりのように参加する、私のような短期のボランティアへの連絡・送り迎え・作業段取りや心構えの伝達などなど。
それが東北の被災地域全域を対象としているのだから、まさに東奔西走です。

 

もうひとつ画期的なことは、気仙沼ではプライマリケア連合学会の医師団の活動(PCAT)に加わったことです。
我々の業種は、医師や看護師と比べて、ボランティアの期間は収入が途絶え、経費は持ち出しになることが圧倒的に多い。それは社会的に医療チームの一員とみなされるにはまだ不十分な面が多々あるからでしょうし、保険制度の問題でもあるでしょうが、今回、私は詳しい経緯は知りませんが、PCATからの要請で参加できたこの鍼灸マッサージプロジェクトは、「医療」として「必要」とされ「公認」されたということです。その分、カルテをつくり引き継ぎをし、経費を参加者に還元しようと、組織としての質の向上も図っている。すばらしい。

 

私が今回ここに参加することになったのは、業種団体の垣根を越えて活動しているプロジェクトだったからです。
私は日鍼会や全鍼師会などに属していないし、属している団体は支援の募集をなかなかしません。個人で勝手に行かないように聞いていたので、「何か手助けをしたい」、義援金以外に、自分の技量で、という思いは募る一方でした。しびれを切らして、こちらのHPの応募フォームで応募しました。私のようなひとりでやっている人間には、好都合でもあったのです。

 

施術の現場のことを少し書きます。

 

体育館に寝泊まりする人たち。お風呂も週2~3回入れればいい方。
動かないまま生活不活発病になっている人たち。
脚が硬くなってしまっても、運動の指導さえ受けていません。
パニック障害になった人。痛いと言いながら部位が不明。
明らかにマッサージと言う名の“手当て”を欲しています。

 

ハエが身体に触れてくる。たえず一人に一匹くらい。手をすり足をすりしても、あんまりありがたくない“手当”。

 

ご近所の人同士で悲劇の当日の話を世間話のようにしています。
家族のような間柄だから、助け合って生きてこられたのでしょう。だからといって、思い出話として平然と話しているわけでは決してありません。
こちら側もつられて詳しく話を聞いてはいけません。
ここまでくるのにいくつの長いトンネルを抜けたのか。

 

3ヶ月たってからこの1ヶ月で10㎏やせた、という80代のご老人がいらっしゃいました。内科に行って検査してきたばかりで、ストレスしか考えられないということです。
3ヶ月間はやせる暇もなかったのでしょう。

「ありがとう」と言うだけのために、どうしてそこまで土下座のように深く何回も何回も頭を畳にこすりつけてくれるのか。
私にはもったいないですよ。私も何回も土下座をし返しましたが、回数でも深さでも負けました。

 

スタッフが探し出した、地元の柔道整復師のA先生には、夕方から我々の活動場所に参加してもらっています。
昼間は工場の一角につくった仮設の施術場所で、少しずつ仕事を始めているとのこと。
とても笑顔のすてきな先生ですが、全身から悲しみが感じられて仕方ありません。

詳しいことはもちろん聞けません。ただ、
 「海は見たくないですね」
とおっしゃっていました。
目の前は、ただただ胸のすくような綺麗な青い海なのに。
 「泥を全部陸地に押し上げちゃったからね。逆に海は澄んでるんだ」

 

今回ほど、この職業でよかったと思ったことはありません。
被災者に、直接手当ができ、その反応をその場で感じ取ることができるのです。
いろんな支援のかたちがあり、支援ができる人とできない人がいるでしょう。 施術家なら誰しも、支援に行きたい気持ちが募っているでしょう。
でも私はこうやって、やきもきした気持ちを直接行動にかえることができる環境がありました。

 

そのやきもきした気持ちを晴らすために行くということは、一種の自己満足かもしれません。
でも、自己満足でいいじゃありませんか、モチベーションとしては。
被災者の方々に本当に役に立てたのかどうか、
精一杯気持ちを込められたかどうか、
自分が「納得」できる仕事ができたかどうか、
現場に行けば、ありのままにわかるはず。
一人ひとりの自己満足の集合体が、社会的な「納得」に変わるでしょう。

 

たった四日間の滞在で、被災者の人々にとってはなんのことはないかもしれませんが、決してこれで終わることはありません。
どこまで自分のこととして考えられるか、これからが勝負です。

 

とはいえ この期間、私が仕事を休んだがために治療を受けられなかった東京の患者さん方、ごめんなさい。

                               2011年 7月   高岡誠司  東京都大田区

 

 



【PCAT活動報告:6月6-10日、20-24日】            植松高俊

 

 

今回、災害鍼灸マッサージプロジェクトの紹介で気仙沼の方で治療ボランティアをされているPCATの活動に6/6〜6/10及び6/20〜6/24と二度ほど参加させてもらいました、植松高俊という者です。

 

まず、避難所での活動で感じた事は思っていた程、避難されている方々の目が死んでいないという事でした。東北人の気質と震災から3ヶ月くらい経つというのもあったのだと思います。
ただ、多くの方が困った目や困惑の気配を醸し出していたのは事実だと思います。長い避難所生活でプライバシーが無いのはもちろんですが、ある程度は改善されたとは言っても固い床での就寝や階段を使わなければ移動できない環境、坂道が多い土地柄と快適と言えない生活環境の上、復興の三ゲン則の内、権限(行政)と財源がまだまだ人間に追いついていないのが原因だと思いました。
いち治療家にすぎない自分には行政にも財源にも何の効果も発揮できませんが、腰や膝の痛み等に対して施術をおこなったり、話に耳を傾ける事でその人の痛みや苦しみをある程度は和らげる事は出来ますし、その後、廊下等ですれ違っても柔らかな眼差しで話しかけてくれたりと明らかに雰囲気が変わっているのにビックリしました。

 

 次に施術に関しては、災プロの最終目標が「地元への還元」という事と後続の先生方に繋げられるようにカルテに簡単でも施術内容と方法、理由を残すようにしていたのと、流派間の違いが出ないようにするために圧痛部や硬結部、緊張部といった局所的な阿是穴をメインに鍼灸治療をおこないました。
治療室内での施術では目隠しや仕切りがあったので通常通りに服を脱いで背中にも針は打てましたが、避難所巡回での施術ではプライバシーの事を考えるとそうとも言ってられないのでマッサージを主にし、鍼灸治療をおこなう際は腕や足の経穴を選択していました。
また、マッサージに関しても避難所の固い床でおこなう際には腹臥位による脊柱の過伸展による医療事故を避けるため側臥位での施術を心がけていました。
あと、避難所本部には清掃道具が宿舎には洗濯機と乾燥機があったため、治療室内の清掃及びその日使ったタオル類の洗濯といった衛生面に気を配る事ができたのは良かったと思います。

 

今回、参加してみてこのような治療ボランティアに要望したい事がありました。
 まずは、2名以上のチームで派遣されるのが望ましいと思いました。
今回の派遣先は3カ所の避難所が隣接し、その3カ所を1人で切り盛りしなければなりませんでした。一応、希望のあった避難所には時間を区切って巡回しましたが3カ所を常に均等に巡回するというのは無理がありました。
また、鍼灸マッサージの施術希望はかなり多かったらしく、ボランティアセンター等に避難所本部から要請した治療ボランティアの方々が入っていました。こういった方々は避難者にも自分にも助かるのですが、どこから情報を得たのかボランティアセンター等を通さずに無許可で施術をおこなっていた輩がいたと目撃した避難者の方や実際に施術を受けて症状を悪化させた避難者の方から聞きました。
こういった事を防ぐためにも複数名の治療家が現地入りして施術にあたった方が良いと思いました。
 次に、できれば避難所に総合診療や全身診療のできる医師がいた方が良いと思いました。
今回、派遣された気仙沼は自分が行った頃にはかなり医療機関がそれなりに機能していましたが、巡回中に腱板断裂の疑いがあると以前派遣されてきた医師から診断された方や手根骨骨折の疑いがある方、湿疹が出ている方などがいて、医療機関への受診を促していました。
もし、気仙沼のように医療機関が機能していない被災地だったり、専門外の医師しかいなかったらと考えるとちょっと怖くなりました。
 あと、医療従事者や治療家達は同じ宿舎に寝泊まりした方が情報収集や情報共有がしやすいと思いました。

 

自衛隊による災害復興やボランティアの規模は徐々に縮小されて地元の方々に委ねていくようになるでしょうが、政治力・財力・人力の全てがまだそのレベルまでいっていないと思いますので、せめて人力に対して回復するまでののつなぎ役として我々のような治療家達が出来る事を続けていくべきだと思いました。

 

※後方より補足
⇒「流派間の違いが出ないようにするために」につきましては、
カルテ記載時にできるだけ西洋医学的表記を用いてくだされば十分です。
治療法は、せっかく現地へ赴いてくださったのですから、ぜひ先生個々人による患者さんのための最良の手段で行ってくださればと思います。

 

 

⇒また、人数につきまして、確かに2名以上のチームで行うことが望ましいのです。

しかしながら現在、災プロのボランティア希望者数が減少しており、徐々に継続的な派遣も難しくなっております。
ぜひご友人とお誘いあわせの上、ご参加いただければと思います。

 

 

 

【6月5-6日・宮城県石巻市での活動報告】

 

5月に災害鍼灸マッサージプロジェクトの現地ボランティアとして岩沼・名取で活動に参加された中野朋義さんが、岩手県釜石市での活動(5/25,26)に続いて、6/5.6の日程で“震災鍼灸マッサージボランティア はりきゅう便”の現地ボランティアとして、宮城県石巻市に入られた様子を報告してくださいました。

 

災害鍼灸マッサージプロジェクトとしての派遣ではありませんが、貴重な現地での情報としてシェアさせていただくことをご了承いただいたので、紹介させていただきます。

※ ファイルサイズが約2MBあります。

 

 

石巻活動記録.pdf
Adobe Acrobat ドキュメント 2.5 MB

【6月12-14日・南三陸町での活動について】               神尾 宏明

 

 

6/12~14 南三陸町で活動させていただいた神尾と申します。
ネットでたまたま災害鍼灸マッサージプロジェクトのHPを知り、応募いたしました。
6/11夜、現地へ到着。海岸付近の唐突な景色の変化に、鼓動が早くなったり胃の緊張を感じました。しかし現地の方々と接するうち、それは和らいでいったように思います。
また、先発の先生方のご努力により、現地での活動の認知度が高く、設営を除けば、普段とやることが変わらないように感じたことも、安心の助けになりました。

 

<一日のスケジュール>
9:00~9:30 ホテルロビー集合、打ち合わせ後、出発
10:00 活動1 到着・担当者(その場所のキーマン)に挨拶・場所設営・施術開始
15:00 撤収・移動
(時間の許す限り、休憩をとります。)
17:00 活動2 ベイサイドアリーナ 仮役場会議室・場所設営・施術開始
20:00 撤収・ホテルへ

 

活動1では、ニュー泊崎荘、歌津中学校体育館 災害対策本部、平成の森に伺いました。

歌津中では本部職員や現地ボランティアさんを。他では避難されている方々を施術。
活動2では、毎日、仮役場に伺い、職員の方々を施術。私個人、3日間で17人を担当。

 

<施術活動について>
設営場所にご自身で来られる方のみの為か、重い症状はみられませんでした。
多かった症状は、全身疲労、腰痛(男性は力仕事、女性は断水による慣れない家事による)、軽い睡眠障害、デスクワークによる肩背のコリ(役所の方)でした。
お灸の使用については場所ごとに確認し、仮役場では灸頭鍼を使用しました。
現地の方々は、すぐにドクターの診察が受けられる状況に無いため、症状の悪化だけはさせないよう、普段より一層気をつかいました。

 

施術場所の設営は、現地の災プロのノートを参考に、その場にある物で仕切りや囲いを作って行いました。また、履き慣れた室内履きやスリッパがあると、重宝します。

 

避難所では、キーマン(民宿なら女将さん、災害本部なら長期間そこで事務をしてる方、など)とのコミュニケーションが大変重要に感じました。常に人の入れ替わりがあり、“その人に言えば話が通る”という存在が貴重だからです。

 

<生活について>
滞在したホテルは未だ断水中で、持っていったペットボトルが役に立ちました。一日2リットル強、使ったようです(私は朝食は自炊しました)。
食事は、コンビニやホテルのレストランを使用しました。
セダン車で行きましたが、東北道含め、現地の道は心配なく車で通行できました(海岸沿いは日によって工事により通行止めになります)。

 

<活動を終えて>
活動後は、仕事を休む程ではありませんが、1週間ほどはケアの時間が必要でした。
精神的なショックというよりも、単なる心身の疲労のように感じました。

 

活動をこなすのに精一杯で、特に利用者さんとの関わりは、反省が残りました。
施術中、辛い体験を話す方は、あまりおられませんでした。PTSDのこともあり、こちらからは触れませんし、もしかしたら私の方にも原因があるかもしれません。
しかし、あれから三ヶ月、そういったものが心の表面より、少し深いところに収まってきているのかもしれません。
たまにご自身の現状を、静かに話して下さった方もありましたが、悲しみとも諦めともつかない、複雑な感情が垣間見え、デリケートな対応の必要を感じました。
事情が許せば、また参加させていただき、反省を活かしたいと思っています。

 

今は、この体験を意識して周りに話すことで、被災地への関心の持続に、少しでも役立てればと思っています。

 

 

 

【5月12-27日・気仙沼中学校@ハブ藤沢 活動報告】        松本美由季

 

5月12日〜27日までの16日間@気仙沼中学校にて鍼灸ボランティア活動を行いました。現在ドイツ在住のため情報が少なく、当初はPCATのみの登録にて帰国したのですが、災害鍼灸マッサージプロジェクト(災プロ)から派遣された方々同様、災プロにも登録させていただきました。

 

気仙沼での活動は、PCAT医療班との医療連携が主体となりました。従って施術以外の活動としての会議がとても多かったのですが、これらが被災者個人、被災地・避難所全体の情報の収集、共有、問題提議、解決のための非常に大きな助けになりました。

 

一日のスケジュールは以下の通り
5:45起床:朝食、準備
6:50ハブ出発:車での移動小一時間
8:00 DMAT会議(活動地域定点16-21箇所の状況把握、情報共有)終了後、定点へ移動
9:00班長会議;各避難所(教室)の班長が集合(活動地での状況把握、活動通達)
10:00活動開始!
  (中学校定点/巡回、小学校定点、市民会館定点/巡回の最大計5カ所)
12:30午前終了(メンタルケアの患者はお昼に個室として施術する事あり)
13:00中間報告(保健師を交えて連絡、個人情報の共有、状況把握など)+お昼
14:00活動再開!
16:30活動終了(片付け後、救護室待機、会議場へ移動)
17:00 DMAT会議(各定点の活動報告、情報共有)終了後、定点へ移動
18:00異業種テント会議(中学校、小学校、市民会館にて活動する異業種;医師看護士、保健師、介護士、鍼灸あん摩マッサージ師など全ての異業種での会議)
ここでは、連携をスムーズにするためにコミュニケーションの場としても活用されました。

 

活動途中は積極的休養を取る様に心がけました(これ大事です)。帰宿舎は、毎日おおよそ20:30位でした。とても幸運な事に日本栄養士会や同僚の方々のご好意で晩ご飯などは作っていただいたり、時に皆で外食したりできました。毎日この和みの場があったからこそ、頑張れた16日間でした。

 

私が滞在した期間、気仙沼中学校には390人、小学校130人、市民会館190人の被災者の方々がいらっしゃいました。活動は、中学校を中心にこれら5カ所で行いましたが、これ以外にも保健師に同行して仮設住宅への巡回をする事もありました。

 

活動詳細としては、まず定点では、予約制とし一人約30分の施術を行うのですが、主には治療することに重きを置いての活動となりました。例えば、脊柱管狭窄症様症状にて50mと歩けない方への施術や、腰痛や不眠、またメンタルケアを必要とする方に伴う愁訴を緩和する施術です。

 

一方で巡回での一人に対する施術は15分から20分程度でしたが、主に各避難所内の雰囲気の改善、癒しや和みに主事すると共に、「情報を提供/収集する」ことに重きを置きました。これは、単純に鍼灸マッサージの良さを知らない方への普及活動でもありましたし、避難所内定点へさえも出向く事ができない状態の方(メンタル、フィジカルの両面にて)を掘り起こす作業でもありました。日々変わる彼らの顔つき、日常をチェックし、寄り添う事のできる最も単純かつ効果的な活動だったと思います。

 

活動中に経験した成功/失敗の2症例をここに挙げてみます。まずは成功した例ですが、巡回中に「まずい」と思う男性がいました。彼の避難所での生活は元同僚との共同生活でした。決して暗い顔を見せない性格で、たまたま巡回中の私と2人になった時に、「2日前から食事ができない」と教えてくれました。彼にとってはこの避難所生活での始めての弱音だったのではないかと思います。その日の施術は簡単に済ませ、救護所(医師)と鍼灸マッサージの定点の案内をしたところ、翌日には定点を訪ねて来てくれましたので良かったと胸を撫で下ろした事を覚えています。施術をしながら、救護所の医師と即連絡をとりご高診を仰いだ結果、十二指腸潰瘍の薬を処方されました。薬の効力もあり、翌日には配給されたカレーを完食、もともと食が細いながらもまた食事を摂る事ができた事を一緒に喜びました。これをきっかけに、その後は持病であった腰痛への施術とメンタルケア、そして継続して医師によるメンタルケア、心のケアチームを受診していただきました。医療連携という形でとても良い方向へ向かった一例です。

 

逆に失敗例ですが、こちらも同じように巡回中とても気になる女性を見かけ少しお話を伺いました。主訴は「動きたくない」との事。食事も食べたくないと訴えていました。この方は、定点には来る事は無理かもしれない、救護所へも自分では出向けないだろうと考え、巡回する保健師さんへ観察の継続をお願いするつもりが忙しさにかまけて報告/連絡を失念してしまいました。その2日後に救護所に戻った私の目の前で彼女は食欲不振からくる脱水様症状で点滴を受けていました。もっと早く報告するべきでしたし、もっときめ細かな活動が必要だったと反省しています。彼女を見つけ救護室へお連れしてくれた保健師さんに感謝していますし、ここでもチーム医療の大切さを痛感しました。

 

鍼灸あん摩マッサージ師は寄り添う医療を得意とすると思っています。単に身体に触るだけではなく、同時に心を開いてくれる事が多い。

 

寄り添うという意味でこんな症例もいました。彼は肩痛(陳旧性小円筋断裂)を訴えて施術を受けていましたが、昼の中間報告で保健師さんがこの方の高血圧症を危惧しています。しかも血圧測定、救護所への来所は嫌がっているとの事。状態は安静時で190/110と決して見過ごせる状態ではありません。即日中に避難所に保健師と出向き、再度測定しましたが状態に好変はなく、救護所での診察を勧めますが二の足を踏んでいます。翌日、自分が一緒に行くからと付き添い、やっと救護所にて診察を受けてもらいましたが、やはり高血圧症という診断になってしまい降圧剤を処方されました。診察中不信な顔つきでしたので、翌日また救護所に伺うと今度は降圧剤を飲みたくないと仰います。理由は、「一度飲み始めたら二度とやめられないから」です。降圧剤の必要性、現在のストレス環境下からくる高血圧の可能性が故に服用は一過性で済むかもしれないと言う医師の言葉を伝え、なんとか服用してもらい、これらをチェックする事も私の朝の日課となりました。

 

この様に、医療の中で最も患者に近いと思われる鍼灸あん摩マッサージ師の活動の場は広くそして患者により近いものだと思います。

 

また今回の活動で深く感じた事は、一人の患者を一人で抱え込む自己完結型の医療ではなく、一人の患者を多くの医療者でみるチーム医療としての活動が必要だと思います。取りこぼしのない医療を目指したい。それらはボランティア活動に限らず、地域医療にも通ずるものだと考えています。

 

また、ボランティア終了後の支援者(自分)の心のケアはとても大切です。活動中に自分を奮い立たせていた異様な興奮状態も終了後には身体をかなり酷使した事が分かります。また身体のみならず精神的には問題ない様に感じますが、やはり以前の様には行かない事もあります。私の場合は活動終了して既に1週間が経ちましたが、今でも疲労感による活動抑制、そして楽しめるはずの場面での空虚感、そして触れ合った被災者さん達を思い出し、彼らの体調や生活等が気になっています。活動中に「自分の(地元の)患者みたいになってくる」とある医師がつぶやいていらっしゃいました。同感です。私たちは、ボランティアとして現地に向かい期限のある活動をします。いずれは去る者として彼らに近づかないという選択もあるでしょう。しかし私が滞在した時のチーム内の了解として、その医師からアドバイスいただいた事をあえてここで報告しますと、彼らの心身を持ち上げて寄り添い、そして去る時が来たら去ろう。例え私たちが去った後に再度彼らのメンタルがダウンしたとしてもそれは以前の様ではなく、少しだけ前進していると思う。最後は彼らを信じて現場を離れる。それが私たち支援者にも大事な事だと思います。

 

 

(以下のツイートは災害鍼灸マッサージプロジェクトの活動ではありませんが、とても参考になるツイートなので、参考資料として掲載させていただきます)

 

2011年06月12日(日) 10:07:01    yarbo11    石巻市ビッグバン活動初日、看護師さんも保健師さんもいらっしゃると聞いたので、挨拶しとくことに。困ったような顔した看護師さん3人と、お互い妙に離れた位置からご挨拶。保健師さんとはお会いできず。挨拶するのも簡単ではないな、とひとり思う。

 

2011年06月12日(日) 10:23:03    yarbo11    ビッグバンでの施術中。何人かの人から、揉み返しや、鍼あたり・灸あたりの話がでる。「痛かったけど、我慢した。」、「鍼やマッサージは自分には合わないのかと思った。」など。重篤なものはなかったようだが、被災者の方にかえってつらい思いをさせるようなことは避けたい。

 

2011年06月12日(日) 10:40:51    yarbo11    となりで灸施術を受けていたひとのお灸の煙を嫌がって、せき込んでいるひとがいた。手ぬぐいを貸してあげたら、一生懸命鼻と口おさえてた。喘息の発作がでた翌日だったせいもあるのでしょうが、相当嫌がってました。スモークレスを使う等の配慮が必要でしょう。

 

2011年06月12日(日) 10:50:48    yarbo11    技術や専門知識、インフォームド・コンセント等が必要なのはもちろんなんですが、自分をしっかりコントロールして、自分のベストの状態で、被災された方ひとりひとりの心身のつらさを手で感じ取り、それに対して必要なことを、必要な刺激量で施術することが必要でしょう。

 

 

【5月25-26日・岩手県釜石市での活動報告】

 

5/1~5/4まで、災害鍼灸マッサージプロジェクトの現地ボランティアとして岩沼・名取で活動に参加された中野朋義さんが、5/25,26の日程で個人的に岩手県釜石市に入られた様子を報告してくださいました。

災害鍼灸マッサージプロジェクトとしての派遣ではありませんが、貴重な現地での情報としてシェアさせていただくことをご了承いただいたので、紹介させていただきます。

※ ファイルサイズが約2MBあります。

 

http://890iwanuma.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_38d/890iwanuma/E9879CE79FB3E3839CE383A9E6B4BBE58B95.pdf

【5月3-8日・気仙沼の鍼灸ボランティア活動に参加して】

                2011年5月29日  大阪・さとう鍼灸整骨院 佐藤 啓二

 

PCATの緊急要請

 

5月GWに東日本大震災の被災地、宮城県の気仙沼へ行った。

 

2日の夜9時、治療院を出発。

 

当院から4人、大阪・上本町の「美フォーム鍼灸整骨院」院長と合わせて5人が、車で1,000㌔のボランティアの旅に出た。

 

3.11のM9大地震に津波、そして未曾有の原発災害の被害ははかりしれない。

 

スタッフに呼びかけたのは3月下旬だった。

 

「いまからが鍼灸マッサージの出番だ。ボランティアに行こう! 仕事は休めないから、5月3~5日に行くぞ!」

 

その時は、まったく行く先のあても何もなかったが…。

 

そんなとき、メールマガジン『あはきワールド』(3月25日付号外)に「緊急寄稿 鍼灸マッサージ師による被災地でのボランティアについて」 (三輪正敬)が載った。その後、毎週「災害鍼灸マッサージプロジェクトのボランティア活動の記録」はじめ、福島県鍼灸師会など被災地での「鍼灸ボランティア活動」などが掲載されるようになった。

 

4月21日、「災害鍼灸マッサージプロジェクト」(以下「災プロ」)に「GWの3~5日に5~6人で行きたい」旨、メールを送った。

 

返事はすぐ届いた。


「可能でしたら、5/5~8での活動をお願いできれば…」と。

 

4月22日の院内ミーティングで、「6~7日は仕事を休めない」ということになり、その旨、再びメールを送ったが、「GW期間中は多数の応募があり、別の機会に…」(28日)という返事がきた。

 

スタッフには、「3~5日はいろんなボランティアが集中するやろな。受け入れも大変やろし、無理かもわからん。」といいつつ、「泥出しでも、なんでもいいか?」といいながら、行き先も見つからず、悶々としていた。

 

半分あきらめかけていた4月30日、東京の「災プロ」からメールが入っていた。

 

「佐藤様のチームに…向かっていただきたい現場があります。…気仙沼および南三陸町の医師団から、鍼灸マッサージ師を送ってほしい連絡がきています。」

 

「東日本大震災で被災した地域の保健・医療・介護職をご支援し、地域の保健・医療・介護と地域社会が復興を遂げるその日まで、長期に渡って支援活動を展開」する日本プライマリケア学会連合がGWに健康支援調査を行うという。“Primary Care of For All”Teamと名付け、略称PCAT(ピーキャット)。

 

そのPCATから、「気仙沼では800名規模の避難所での健康診断を行うので、その際、症状のある人を鍼灸マッサージ師などにまわしたい」との要請だった。

 

30日の土曜の午後、治療を終えて掃除をしていたスタッフに、興奮を抑えてよびかけた。

 

すると、それまで、不参加の意思表示をしていたK君が一番最初に「行きます!」と元気のいい返事が返ってきた。あきらめかけていた他のスタッフの気持ちに、もう一度やる気を起こさせて、全員一致、行くことになった。

緊急スタッフ会議を開き、体制を話し合った。前半の3~5日は5人全員が参加し、その後3人は帰阪、6~7日の大阪での診療を行う。後半の6~8日は2人残留して治療にあたることにした。前半組には急遽、花巻空港~大阪空港への航空便を手配してもらった。

 

軽いマッサージや接触鍼だけで表情が明るくなる

 

気仙沼へは車で13時間余り、3日午前11時過ぎに到着。

気仙沼小学校のグランドへ行くと、多くのボランティアといっしょに子どもたちが凧揚げをしていた。空を見上げると、空高く上がった凧の横には虹がかかっていた。半円ではなくまっすぐに伸びた虹だった。

 

現地での受け入れやコーディネーター役をしてくれた東京の鍼灸師WAKAさんを捜す。小学校の下に位置する中学校にいるという。

そこで、他の鍼灸ボランティア2名を加え、簡単な説明を受ける。
午後から、二手に分かれ、4人は気仙沼小学校体育館(避難者140人)へ。1人は、中学校(同432人)に応援に行き、他の鍼灸師と合流。3人で避難所になっている各教室をまわる巡回治療にあたった。

 

小学校の体育館は子どもたちが外で遊び、大人たちの多くは出かけているようだ。人は多くない。支援者たちにあいさつし、場所を確認してから、「鍼灸マッサージのボランティア」の告知をしてまわった。

館内の中央には、女子中高生などのいる家族が生活しているテントが並んでいる。そのうちのふた張りはボランティアの看護師などが寝泊まりしているが、そのテントを治療用に借りた。
テントの周りの窓側には、冷たい床に断熱材のマットを敷き、ダンボールなどで仕切られただけの区画がいくつもある。その区画へ手分けして訪問し、その場でマッサージやはり治療をしたり、テントでの治療の予約をとったりした。

 

館内の中央には、女子中高生などのいる家族が生活しているテントが並んでいる。そのうちのふた張りはボランティアの看護師などが寝泊まりしているが、そのテントを治療用に借りた。
テントの周りの窓側には、冷たい床に断熱材のマットを敷き、ダンボールなどで仕切られただけの区画がいくつもある。その区画へ手分けして訪問し、その場でマッサージやはり治療をしたり、テントでの治療の予約をとったりした。

 

初日はこちらも、被災者も、互いに様子見のような、距離感を置いた感じだが、次の日、そして3日目になると垣根が低くなり、震災当時の様子やいまの状態などを話してくる人もおり、心を開いてくれるようになった。
いずれも、接触鍼や打鍼、軽擦程度のマッサージやタッピングだが、それだけで心身の疲労、肩こりなどから解放され、表情が明るくなってくるのがわかる。
子どもたちはマスコミでも有名になった『ファイト新聞』を書いて館内の掲示板に張り出しているが、避難所に明るさを提供してくれている。子どもや家族を失った人もいるし、先は見えないが、小学校の避難所では少なくとも子どもたちの存在が支えになっている気がする。
初日、5人で20人を治療した。半分は腰痛を訴え、肩こり、全身疲労、坐骨神経痛、不眠なども多い。

 

 

 

津波の被害は想像以上

 

午後4時過ぎ、1日から来ていたボランティアたちと合流、中学校の下に位置する市民会館前に12人全員が集合。初顔合わせで印象を語り合った。

「統一した問診表をつくるべきではないか」という案も出たが、これまでと同じように、氏名、性別、年齢、所属班を記録することで落ち着いた。翌日、朝9時30分にそれぞれ今日と同じ避難所へ集合し、10時から午後4時まで治療に当たることなどを決めて、藤沢町民病院へ行く組と藤沢町にある近くの農家民宿へ行く組とに分かれた。

 

わが「チームさとう」はその後、市内や港などの被災現場を視察してから、農家民宿へ向かうが、目の前で見る津波の被害は想像以上のひどさである。

 

がれきやめちゃめちゃになった車などはところどころにまとめて山積みにされているが、いまだに船がよこたわり、焼けただれた車なども商店や家に突っ込んだまま。気になるのが地盤沈下だ。ちょうど満潮時だったらしく、冠水した道路、桟橋は海水面まで数センチまで迫る。波止場近くの4階建ての商店は、津波のひどさを物語っているが、家を修理しながら、お酒などを売っていた。
電気のつかない信号が何ヶ所かあり、そこから少し内陸に入ると、被害は感じられない。

 

気仙沼は地震と津波のあと、港に近い街や大型船など火の海になった映像が強烈だったのを鮮明に覚えている。
治療しながら、教えてもらったのだが、津波は大きな重油タンク3つとも流され、その油に引火したり、電気系統などがショートして、海と町が燃え上がったという。
治療中、被災者の一人は「気仙沼にはびこる泥のような、重油のようなにおいは嫌だ」といっていたが、重油の燃えた臭いに瓦礫の粉塵が混じり、普段とは違う魚介類の腐った異様な臭いがし、体育館などにもただよってくることもある。
大阪とは1ヶ月遅れくらいになるのだろうか、花粉が飛び交い、その上、黄砂が混じる。避難所の汚れた空気も加わり、咳をする被災者が多い。われわれは1週間、鼻水とくしゃみなどに悩まされただけだが、被災地では雪も降ったり、寒い日が続いていたので、肺・気管支系の疾患は多いのだろう。
東北を襲った雪害は30数年ぶりともいわれ、太平洋側の岩手・宮城も例年になく、雪が降り積もったりした。
GWは、日中は少し暑くなるが、朝晩は寒いぐらいだった。体育館の床は冷え冷えとする。

 

「想定外」の待遇

 

気仙沼に着く直前、携帯で、泊まる場所は岩手県の一関と気仙沼の中間に位置する藤沢町の藤沢町民病院になるだろうとの連絡をWAKAさんから受けていた。藤沢町民病院は気仙沼や陸前高田などへのボランティア派遣のハブ(拠点)になっている。

 

雑魚寝のつもりだったので、寝袋や食料なども持ち込んでいたが、PCATの計らいで藤沢町の「農家民宿」に5泊することになった。食事付、風呂付という待遇は「想定外」だった。しかも、宿泊費も、交通費もPCATが出してくれる。初日は東京組3人とともにみんなで8人が泊まった。

 

そういえば、この日「チームさとう」はみんな昼食抜きだった。民宿に向かう途中、疲れと空腹が一挙に押し寄せてきた。築130年のいろりのある伝統的な造りにみんなが驚き、感激した。農家民宿らしい「豪華な」夕食は、長旅の疲れとはじめての被災地での治療という緊張を一挙に解きほぐしてくれた。

 

宿のご主人の“あんちゃん”は農業に従事しながら、町会議員をやり、裏山には40年かけて造った「桃源郷」があり、桜、ヤマモモ、水仙などが花盛り。宿の名は「観楽楼」。GW中、県内外から連日、花見客が来るほど、人気のフラワースポットなのだ。
食事はお姉さんが手伝いに来ていて、明らかに脊柱管狭窄の症状がある。食後、治療をすることになり、これが日課となった。5日間の治療で、下肢の痛みが緩和され、喜んでもらえた。
治療中、突然、地鳴りのような音がしたかと思うと、ぐらぐらと揺れ出した。「地震だ!」。「あわてない、あわてない」とあんちゃんがいう。余震は、ほぼ毎日あった。

 

 

被災者の食事はやはり偏っていた

 

2日目、農家民宿「観楽楼」の自慢のフラワーガーデンを見、普段は食べることのない朝食をいただき、しかもお昼用のおにぎりもいただいた。これを5日間同じようにしてくれた。治療する側が元気でなければ、ということで甘えることにした。

 

小学校の体育館の外では青年会議所などがおもちゃや風船、ゲームなどお祭り気分の出店をはじめていて、クイックマッサージもやるという。

治療は中学校へ1人派遣し、4人が小学校で治療に入る。さまざまなボランティアが入り、天気も良く、館内の人は少ない。この日は予約も入り、小学校では子どもへの小児はりも含め、22人。中学校に派遣したT君は1人で14人、マッサージを中心に巡回治療を行った。
やはり腰痛、肩こり、神経障害、不眠、そして動悸や吐き気、頭痛などいろいろな症状があった。
食事はカップめんや缶詰が多く、野菜が少ないといい、身体を動かすことも少なくなり、避難所くらしで肥ったという人も数人。
館内では、PCATが本格的に健康調査に入っている。結果は8日、市民会館で知らせることになっている。

 

4時過ぎ、体育館を離れるとき、さきほど小児はりをした親子3代の4人が、いまから、市民会館の駐車場に設置された自衛隊のお風呂に行くという。「玄海の湯」とのれんに書いてある。九州の部隊だ。お風呂は、女性男性が隔日に分け、1日おきの入浴になる。
夕方は肌寒く、風も出てきた。小学校のグランドを横切り、中学校の校舎からさらに下へ降りて行き、再び帰ってくる間に、湯ざめして風邪でもひかないか心配になり、声をかけた。
「お風呂は楽しみでね…。」と嬉しそうに言い返してくれたのが印象的だった。

 

この日の活動が終わってから、WAKAさんとうちのスタッフ1人が帰ることになっていたので、気仙沼駅まで送った。農家民宿へは大阪組4人だけになる。

 

自己満足にしたくないが…

 

子どもの日の5日、この日は仙台の洋服店がボランティアで衣類の提供を行っていて、被災者の列ができていた。1人10着まで選んでいいという。あるご夫婦の治療をしていると、ご主人は2着しかもらわなかったことを奥さんが嘆いていた。ご夫婦は2人とも腰が痛い。奥さんは以前、鍼が痛かったらしく、最初拒否されたが、刺さない鍼もあり、まったく痛くないことを告げて、治療してみると、腰痛が改善され、喜ばれたと「チームさとう」のY君が報告してくれた。

 

午後に帰阪するY君が東北のラーメンが食べたいという。ちょうど、市民会館から下りてきたところに、「ラーメン屋」を見つけた。入ってみると、ここのラーメンは以前、新聞で取り上げられた記事が貼ってあった。あっさりラーメンを4人分注文した。座敷では、外国人らしき女性数人も混じった会社員たちが代表らしき人の話に厳しい表情で耳を傾けていた。「8月までには何とか再開したい。2階は使えるし、解雇せず、がんばっていきたい。」などと深刻な話だった。
民宿から持ってきたおにぎりとラーメンの相性がいい。「店は、津波でカウンターまで浸かった。ようやく、4月29日に再開することができた。」。息子さんは、なんと当院がある大阪の八尾市で働いているという。ここでのラーメンを3日間、昼食で食べさせてもらったが、全く飽きることがなかった。

 

2人を気仙沼駅に送ってから、残った2人で治療を再開。
「観楽楼」の帰り道、災プロへのツィッターにメールを送るK君に、ただ人数だけでなく、エピソードも入れたら」といった。実は、治療中の女性に「あんた上手だね。ここで治療院やってくれないか?」「娘が東京にいるけど、嫁さんに紹介するよ。」と2~3人に声をかけられていた。ほかにも、「ここで鍼灸院開業してくれないか?」と声をかけてくれた人もいた。ツィッターに「全国の鍼灸師に、気仙沼へ来ないかと、紹介するような記事を送ってもいいやろ?」というやりとりをしていたのだ。実際、ひどい五十肩の人や坐骨神経痛の人など、ずっと続けて診療を期待している人からの声だから、まんざら冗談でもないと思ったからだ。

 

翌7日から8日の昼までは、市民会館(避難者282人)での治療に入った。

 

市民会館では「肩こり、腰痛、ひざ痛、神経痛、不眠症、頭痛…、その他なんでもご相談下さい」「マッサージ・“刺さない”はり 6~8日、A10~P4談話室にて」とA4の紙に書いて、各避難所をまわり、予約をとった。30分ごとに2人ずつの予約はたちまち埋まってしまった。結局、そのまま、3日間予約する人もあり、昼食タイムも30分もとれないほどフル回転の治療だった。6日は19人。7日は18人。最終日は8人。

 

ただ、ここではリピートが多かった。「チームさとう」のK君が感想文に書いていた。
「最初に来た患者さんが次々と予約を入れてしまうので、より多くの被災者の方を診ることができなかったのが悔やまれる。これでよかったのか悪かったのか、答えを出せない。長期に続けば、少しの事が大きな力となっていく。この有意義な活動が絶え間なく続いてほしいし、ますます人出が必要になってくる現場だ。一度、乗りかけた船、このまま縮小しては結局、自己満足になってしまう。何か方法はないか」と自問自答していた。
「最後の治療、患者さんに別れを告げた時、“どうか、お元気で”と言われた一言が頭から離れない」とK君は、複雑な気持ちを吐露していた。

 

 

 

 

 

話を聞くことも治療

 

小中学校と市民会館の3ヶ所で「チームさとう」が治療した被災者の方は6日間で、のべ131人だった。男女別はほぼ半分づつ、子どもから高齢者まで、マッサージのみが58人、鍼とマッサージが73人だった。
このなかには看護師・市の職員や派遣職員などの支援者たちも数人含まれていて、K君の言うとおり、被災者・支援者とも、もっと多くの人に治療が必要だと痛感する。

 

「今日も泥のかき出しをしてきた。腕から肩、全身の筋肉が痛い」と訴える人。
「俺以外の家族はみんな亡くなった」「この部屋の人たちは何もかも流されてしまった人たちなのよ」などと、治療中に語ってくれる人。何も語らず、ただただお礼だけし、押し黙っている人もいる。
治療中に患者さんの携帯電話に、土葬されている弟さんを「いまからとなり町の火葬場へ運ぶから、ブルーシートをもってきくれないか」という連絡が入った人。
「車で逃げようとしたが、渋滞で動かないので、車を捨てて、高台に逃げきたが、そのまま車に残った人たちはどうなったのか…」「津波の恐ろしさを体験した子がお風呂に入れない」など、さまざま極限状態の体験をした人たちばかりだ。

 

明るくふるまってくれる人が多かったが、身体は正直なもので、ほとんど全員、心身ともに疲弊しているのを感じる。被災者の多くは、先が見えない避難所生活への不満、不安といら立ち、人間関係など見え隠れする。
すばらしいふるさとだけに、この地から遠く離れられない気持ちが、治療中に何人からも伝わってきた。
しかし、仮設住宅は、気仙沼だけで3,000戸目標にしているが、5月2日にようやく106戸できただけだ。

 

スタッフには、事前にPTSDへの対応など「心のケア」についての「災プロ」の資料を配り、目を通してもらっていた。
体がなごんでくると、徐々に震災当時のことや家族のこと、先行きのことなど話をしてくれる人も少なくないが、話を受け入れるだけでも、治療につながることを実感した。
「治療の押し売りでもいけない。ざっくりとした施術でもいけない。普段よりシビアで、ナイーブな対応が求められるなか、私たち鍼灸師の姿勢が試されていると思った。」(K君)。

 

治療は半分近くが鍼ははじめてという人だった。
銀の耳鍼を使ったテープで張るだけの経絡治療に、金鍼50番での刺さない鍼=NPA鍼法を加え、軽くマッサージするだけのやり方に、痛みも、緊張もとれ、「身体が楽になった」「いやー、不思議? マジックだね!」とかいわれながら、喜んでもらえたようだ。自信につながった。

 

ひどい五十肩の人や、脊柱管狭窄症の人、坐骨神経痛、顔面麻痺の患者さん、胃痛や便秘・下痢など、鍼やマッサージの効果を活かしたいと、現地に入った鍼灸マッサージボランティアたちは願っていると思う。

 

8日最終日、健康調査の結果を市民会館の談話室で被災者の方に伝えていた。高血圧の人が多い。「ラーメンの汁を全部飲まずに、せめて半分にして塩分を抑えてくださいね」などと、医師の懇切丁寧な日常生活の指導を聞きながら、隣で治療をしていた。残念ながら、PCATやDMATなどとの連携は現場ではほとんどできていなかったように思うが、少なくとも、被災者の健康にとって、互いにプラスの方向で活動が活かされたようだ。これからの新しい活動への礎になりそうな気がする。

 

PCATの活動は5月1日~8日までの「健康支援調査」が目的だった。その一端を担うことで気仙沼での鍼灸マッサージの成果を活かせたことで、引き続き、交通費・宿泊費を出して、鍼灸マッサージ師を募集し、鍼灸マッサージボランティアが取り組まれていることがうれしい。

 

気仙沼は5月8日現在、死者数941人、行方不明者数580人、被災世帯9,500世帯、避難所48ヶ所4,400人。

 

 

[5月21-24日・松島]                                            岡安 維蓉

 

感想としては、被災地の空しさを感じて、
2ヶ月経って今も復興の影も見えなかった虚しさを感じていました。

 

 

被災地の方々は睡眠障害の訴えが多かったです。

私たちはもっと被災地の人々のことを第一に考えて、施術しなければなりません。
鍼灸師でも柔整師でもマッサージ師でも、患者本位の治療家になって欲しいですね。

専門職なので、自己本位になりがちなところが今回見受けられました。

 

 

是非これから被災地に行かれるプロたちに、患者本位に心がけて欲しいことをお願い申し上げます。

 

 

[4月23-25日]                                                         榎戸 剛太

 

いてもたってもいられなくなりました。が、ボランティアへの参加には葛藤がありました。

 

ただの自己満足かどうか。
それで良いのかどうか。
仕事の事。
お金貰って行くほうが気が楽だな、とも思いました。

 

決断させた言葉がありました。

 

阪神大震災、今回の石巻でボランティアに参加した、弟の言葉。
「人生観変わるよ」

 

私の患者様の言葉。
「私は実際に(被災地を)見るだけでも貴重な経験になると思うの。それで何か感じることが大事」

 

「そんなに難しく考えるな。隣近所が困ってるから、助けに行くようなものだろ?」

 

親友の言葉
「おまえみたいのが仲間にいて、良かったよ。」

 

出発予定日2日前の同居の祖母の死。

 

家族の、親友の、同僚達の、周りの人達の、後押しのお陰で決断できました。

 

見てきた事や聞いた事、感じた事、言葉や文字に現す事が苦手でなかなか表現できない。相応しい表現が思い浮ばない。

 

被災地(岩沼、名取)で活動して改めて、

 

鍼灸の素晴らしさを実感した。
(日程をともにした、M氏の魔法のような施術。私も勇気を貰いました。)
日常が豊か(過ぎる?)で恵まれている事を実感した。
本当の幸せとは何かを考えた。
これからの生き方を考えた。
神の存在を考えた。
人間の無力さを感じた。
人間の計り知れない強さを感じた。
自分なんかの小さな力でも何かできる事を知った。

 

まさに「人生観変わった」かな。

 

活動が終了しても、
まだまだ、力になりたい。

 

手から手へ、力をわけたい。

  

被災地への思いは尽きない。

 

同じ時代を同じ地球に生きている。
隣人同士。

 

困った時はお互い様です。

 

もうすぐ、三ヶ月。
報道でも少なくなり、こちらの生活でもあまり影響を感じられなくなり、人々の関心が薄れゆくこの頃。

 

ボランティアの数も少なくなってきているようです。
今こそ必要な時期でもあります。
まだまだ、まだまだ力が必要だと思います。

 

鍼が使えなくてもいい。スコップが使えればいい。
お話を聞ければいい。
できる事は沢山ある。
行こうか迷っている人がいたら、一歩踏み出して欲しい。

 

こっちでできる事もあります。

 

 

でも、むこうでしか出来ない事もあります。

 

みんなで助けあって、ともに生きましょう。

 

最後に、このような非常に有意義なプロジェクトを立ち上げられた三輪氏を始め、携われた諸先生方、後方支援室の方へ、敬意を表するとともに心より御礼申しあげます。
また、今回の震災で亡くなられた方のご冥福を御祈りすると共に、被災された方の日常に、一日でも早く平穏さが訪れますよう、御祈り申しあげます。

  

 

[5月3日-5日 塩竈地区参加]                         鍼灸専門学校在学 石島裕太

 

「鍼灸マッサージ師にできること」

 

最後のミーティングの時に感じたものは安堵と悔しさだった。
私は塩竈での活動の全日程を終了し、ホテルのロビーでの、夜のミーティングに出席していた。23時40分仙台発の夜行バスで東京へ帰る予定だったので、ボランティア最終日も夜のミーティングに出席できた。私にとって最後のミーティングに参加することで、このプロジェクトへの思いが大きく変わった。この活動に参加して感じた思いを感想文として伝えたい。

 

3月11日、東日本大震災が起きた。
東北地方で大地震が起き、津波が街を襲い、原発から放射能が漏れた。

 

何人かの知り合いが“災害鍼灸マッサージプロジェクト”の存在を教えてくれた。学生という身分で、このプロジェクトの役に立てるのか不安は大きかった。しかしこのプロジェクトへ参加することは、私にとって学生生活の必須科目とも感じられ、参加させていただいた。

 

活動地により状況が異なること、刻々と被災地や被災者の状況が変わっていること、後方支援の方々がとても忙しいということ、これらのことを踏まえ、インターネットで確認できることはインターネットで確認し、あとは現地へ行き現場を見て判断をすることを優先しよう考えていた。頭ではそう考えていたが実際のところ、被災地に行くまでに抱いていた不安はいくつもあった。いくらインターネットを見ても、活動の流れがつかみきれないこと、組織の輪郭が見えてこないこと等である。しかし震災後に瞬発的に始まった活動であり、瞬発的に築かれた組織なので、見えてこない部分があるということは当然である。不安が大きかろうが小さかろうが、“現地に行き、現場を見て、できることを実行する”ことに変わりはないと自分に言い聞かせ、強い気持ちで臨むよう心がけた。

 

私の活動地域である塩竃には早朝に到着した。塩竈地区でのボランティアメンバーは10名ほど。朝のミーティングに参加し、メンバーの内、私を含めた3人は寒風沢島へ向かった。塩釜に到着するまでは、“現地へ行き、既存メンバーや被災地で暮らす方々と顔を合わせれば、見えてくるものもあるだろう”と考えていた。“現場で感じられるもの全てから自分の身の振る舞いを判断しなければいけない”とも思っていた。しかし現場へ行くことで“自分に見えてこないこと”が明らかになってきた。組織あるいはプロジェクトの輪郭、そしてこのプロジェクトの中での私の立場やプロジェクトが私に期待すること、これらのことは現地入り後もはっきりとはつかめなかった。塩竈でのリーダーも学生である私に対しどのような役割を期待していいのだろうかと、少々困惑気味だったように見えた。しかしこれはボランティアであり会社勤務ではない。上司がいるわけでも、経済的な利益を追いかけるわけでもない。あくまで、できることを見つけ実行することに意識を集中させた。

 

私は現地で意識し続けたことが3つある。
 

○ 被災された方々と向き合うこと
○ 現場チームの流れをつかみチームメイトのアシストをすること
○ できることをみつけ、何でも実行すること
 

今回の活動は、たったの3日間の活動だったが、できることを見つけられるのか、見つけたことを実際に実行できるのかと、常に緊張をしていた。

 

現場では問診や血圧測定を初めとし、施術補助、カルテ記入、被災者との会話をしたり避難所の掃除をしたりと微力ながらお手伝いをさせていただいた。そんな中、鍼灸マッサージ師である先輩方の背中を見ることで、“鍼灸マッサージ師”を目指す人間として感じたことがある。

先輩方は“目の前の人”に対し全力で臨んでいた。目の前にいる人間が患者であれ被災者であれ、その“場”が治療院であれ被災地であれ、先輩方にとっては目の前の人をまっすぐと見ることに変わりはないのだということが伝わってきた。逆の言い方をすれば、目の前にいる患者個々人に合わせ、常日頃から柔軟な姿勢で臨床にあたっているということが感じられた。ある時は楽しそうに、ある時はつらい表情をぐっとこらえ、しかし終始緊張感を持って臨んでいた。その姿は私に対して、鍼灸マッサージ師を目指そうと決意したきっかけを思い出させた。

 

このような貴重な体験をさせていただく中で、“自分は何かの役割を果たせているのか”と不安に思っていた。被災された方々との会話では、なぜか私が元気付けられてばかりではないか。鍼灸マッサージ師である先輩方の足を引っ張ってはいないだろうか。私はできること全力でしているつもりだが、これは“つもり”に過ぎないのではないだろうか。

そんな不安ばかりの中、私にとって活動最終日の最後のミーティングが始まった。その時初めて、災害鍼灸マッサージプロジェクト塩竈地区の立ち上げに関わったというお二人にお会いすることができた。その瞬間“ああ、この二人はプロジェクトを広い視野で見えているのだろう”と感じ、最後の最後にお二人に引き継げたことに、大きな安堵感を抱いた。それと同時に私がこの3日間行ってきた活動に対し、“もう少し私の視野が広かったならば”と悔しさを感じた。

  

今回の活動で再認識したことがある。

   

『鍼灸マッサージ師にできること』は何なのか。鍼灸マッサージ師は何でもできるわけではない。しかしそこに人さえいれば、鍼灸マッサージ師ができることは無限にある。どんな状況でも、そこに人間がいれば、鍼灸マッサージ師は使命感を持って生きることができる。私はそう生きるための、鍼灸マッサージ師を志している。

たった3日間ではあったが、現地で過ごされている方々に元気をもらいながら、現地でボランティア活動を行っている先輩方に支えられながら、さらには後方支援をしてくださった方々に協力の下で活動に一心になれた。本当にありがとうございました。

そして、このような貴重な活動に参加させていただくための土台を全力で築いて頂いた、三輪先生、小河原先生、橘川さんに大変感謝をしています。本当にありがとうございました。

 

 

[5月20-21日 松島]                                         澤登 亮

 

スタッフ含め4名、宮城県の松島で5月20・21日と活動してまいりました。

 

21日松島町の体育館と教室で鍼灸マッサージの治療を行いました。

体育館は仮設住宅に移動した人が多く、また雨の為周辺の避難民の方が来ないので、午前中1名の治療のみでした。午後はわかりませんが治療希望者は少なかったです。

 

地元に精通したH先生の指示で場所を移動し、午後は小学校の教室にブースを設営しました。被災者20名(児童4人)ほとんどの15名がマッサージと鍼灸治療をうけてくれました。後から聞いた話ですが、最初の人が’マッサージ気持ちよかったよ’とみんなに勧めてくれたようです。15時~18:30時までの活動でした。

 

宮城県鍼灸師会会長H先生の提供で、すばらしい治療ブースと宿泊施設を提供いただき、一人30分程でしたが会話をしながら充実した治療が行えました。H先生には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。また治療後は被災者のみなさん笑顔で見送ってくださいました。

 

また参加させていただきたいと思ってます。

 

[5月17-21日]                            嶺 聡一郎

 

2011年4月29日より5月2日まで、岩沼市および名取市での災害鍼灸マッサージプロジェクトに参加する機会を得られた。

 

以下、限られた経験からのみ感じ考えたことで恐縮だが、今後のプロジェクトの活動や来るべき災害に何か役立つことがあればと、至らないながらも拙文を寄せさせていただきたい。

 

1 活動

私が現地に入ったのは震災から50日となる頃であり、先遣の先生方のご尽力により、既に鍼灸治療やあんま指圧マッサージ治療は一定の認知を得ていた。同時に、埋もれたニーズはまだあるとも感じた。

 

○各所での「御用聞き」

私は鍼灸のみの施術しかできないため、いきなり治療に入ることはできないだろうと考え、初日の岩沼市民会館での活動では「御用聞き」と自己規定をした。

 

健康状態に不安がないか、何か気になることがあったらいつでも声をかけてほしいということを話しながら、幾つかのフロアを回った。5月2日には空室になった部屋が治療室に加わったため治療機会が増えたが、「御用聞き」としてのスタンスは市民会館での活動においては最終日も意識していた。

 

鍼灸治療を受けることに対するハードルは、地域によっては高い。ましてや期間を限定して現地に滞在するというボランティアの性質上、日常的な治療導入のための時間が無いことは事前に想定された。

 

その中でまずは健康上の問題のキャッチと、それが現状で鍼灸あんま指圧マッサージにより対応可能かどうか、より適切な医療者へ申し送るべきかの評価が一つの仕事だということは、特に初期に活動に赴いた先生方がブログやツイッター、HPにアップした活動報告の通りだと感じた。

 

支援者が頻回に顏を出しては「大丈夫か?」と聞いて回ることに、被支援者は「またか」と辟易し、あるいはその度に「ありがとうございます」と頭を下げることが自尊心傷付けることもあり得る。私の接近の仕方の不味さ故だろう、実際にそのような気味が皆無では無かった。しかし、少しでも時間帯を変えて訪れるとフロアにいる人々の顔ぶれは変わり、「じゃあ、お願いするよ」、「私は大丈夫だが、あそこで寝ている人は体調が悪い」といった声を聞くこともあった。

 

○あんま指圧マッサージの需要の多さ

 

岩沼市民会館での「御用聞き」の中で多く出会ったのが、マッサージ治療を望む方達だった。また、名取市役所においても「鍼はちょっと…。マッサージを希望します」という方が複数いらした。

 

そのような方達を、あマ指師としても治療経験をお持ちの先生方に繋ぐということも行った。

 

その上で、私自身は「刺さない鍼もあるんですよ」と携行した鍉鍼やいちょう鍼をお見せし、承諾が得られれば治療を行った。あるいは、身体に触れながら安心していただければ一鍼の鍼と数壮の灸とで治療させていただいた患者さんもあった。

 

また、最初に手技で治療に入った先生方も、必要と判断した場合には患者さんに鍼灸治療を薦め、それが鍼灸受療に繋がることも少なくなかったように思う。

 

私のように鍼灸以外での治療経験を持たない先生方は、他の先生方と連携しながら、同時に接触鍼治療のための道具を使われるのが一法だろう。

 

鍼灸へのダイレクトなニーズが見えにくい中でも、チームワークや方法次第では鍼灸治療が可能であると感じた。

 

2 どんな患者さんが多かったのか

 

○主訴

頚部、肩部、腰部に疼痛ないし凝りを訴えられる方が圧倒的多数だったように思う。震災時の活動や避難所生活から初発に至った方も震災以前から有訴の方も、両方がおられた。

 

しかし、治療が進むうちにご自分から主訴以外の訴えをされる方、こちらが「おかしい」と思ったことを指摘すると「実は…」と不調を話してくださる方もおられた。

 

また、震災以前からの基礎疾患がありながら医療的モニターが途絶している方、震災後から続く激務の中で急性に主訴が発症した方もいらした。

 

主訴への対応はもちろんだが、最初からはお話されない不調を抱えている可能性を念頭に、予断を持たず治療することが必要と感じた。

 

○一般的身体状態

熟睡感の減退や食思不振は、私が診させていただいたほぼ全ての患者さんに共通していた。また、震災前より便秘気味になった、あるいは軟便気味になったという方も見受けられた。「食欲、睡眠、二便を問うべし」という基本を申し送ってこられた先生方の注意喚起が、問診を支えてくださったと思う。

 

震災以来、止むを得ずの過剰な活動を支える交感神経系優位の状態のため、生理学的レベルで睡眠や摂食、排便に支障を来たしている色合いが濃いと推測される方も、心理的ショックが誘引になっていると思われる方もおられたし、背景に神経学的な問題の存在が否定できない方もあった。

 

実際には身体因と心理因とは整然と分けられず、モザイク状となって現在の状態を招来しているケースが多いと思われるため、どちらかの見方に患者さんを当て嵌めることなく、身体のケアの専門科と心のケアの専門家との共働が必要な所以であると感じた。

 

 

もっとも、心理因が疑われる場合でも身体の診立てをしっかり行い身体治療で出来る対応は我々で行う必要がある。身体に触れながら患者さんの傍にいるという鍼灸マッサージ治療の特質から、治療中に新たな訴えをされる方もおられたのではないだろうか。

 

そう考えると鍼灸マッサージ治療が、幾分かは精神療法的機能を担っている部分もあるのではないかと思う。

 

○「がんばれる」身体ではない

前述の一般的身体状態からも推測できるが、脈診、舌診、腹診からは極度に身体が弱っている患者さんが多かった。

 

「がんばろう」が合言葉となっているような状況において休養の重要性を語る人々もおられるが、それはまだ主調とはなっていない。しかし、身体を診せていただいた限り、患者さん方はすでに頑張り切っての今の状態である。

 

休んでいただきたいが現実には、続く避難所生活や我々も含めたボランティアの受け入れと調整、日々起こる火災や救急通報への対応でそうはいかない。

 

せめて治療させていただいている僅かな時間でも、身体と気持ちを緩めていただくしかないのが、何とも歯痒かった。

 

3 課題~我がこととして~

 

○治療情報の継続的フォロー

 

通常の災害支援は、支援者は入れ替わるが被支援者はその地に留る。今プロジェクトも同様に多くの治療者が入れ替わりながらの治療であるため、受診回数を重ねた患者さんに主訴や病歴等を再度伺うという局面があった。受診記録を改めて見ると既に記載されていたこともあるが、受診履歴を咄嗟に検索できない場合、あるいはそこに主訴のみの記載しかない場合もあった。そのような時は、心苦しいが前回治療時と同じ話を再度していただくしかない。

 

カルテについて言及されている先生が既におられるが、治療に必要な情報をどのように後任の治療者へ引継ぎ、活用していくかは大きな課題だと感じられた。

 

日常診療と異なり、特にフロア回りでの治療や時間が限られた市役所、消防本部での治療では、詳細なカルテを記載する余裕が無いことも多い。私自身も、引継ぎに耐え治療に資する記録は残せなかったのは反省点である。

 

現地で他の先生も言っておられたが、シンプルな雛型で、簡易でも主訴、病歴、受診履歴が検索し易い「災害時鍼灸マッサージカルテ」のような情報流通のためのツールが必要だと感じた。

 

一方で、カルテを介さない、前任の先生からの口頭での申し送りや患者さんにご紹介いただいての引継ぎは大変重要だった。また、現地での経験に基づいた治療方針についての示唆に富んだご教示も私にとっては非常にありがたかった。

 

治療記録が機能しづらい中でも、意識をもって治療に臨んでおられる先生から治療的に重要なことが伺えるのは、日常臨床と変わらないといえる。

 

○電子デバイスの扱い方

これはまったく個人的な問題かもしれないが、携帯電話の扱いを熟知していないためMLの受信が不調で、後方支援の方や他の先生方にご迷惑をおかけした。

 

これも既にご指摘の先生もおられるが、機械の扱いには多少習熟していた方が良かったとも思う。

 

同時に、インフラが回復している活動拠点であれば、PC環境を備えることで現地リーダーの先生のご負担の軽減、後方との連絡の省力化が図れる部分もあるかもしれない。

 

もう災害が来ないに越したことはないし、それを切に願う。しかし、その願いが儚いことは既にどなたも気付いておられることだろう。

 

未だ継続している東日本大震災支援に、そして来るべき災害に、今回の災害鍼灸マッサージプロジェクトの経験を如何に生かしていくのかは、今活動に参加した一個人としてだけでなく、治療者としての自分にとり今後の大きな課題であると思う。

 

4 最後に

震災後の早い時期から現地へ赴き、治療を行いながら現地諸機関との連携を作り、活動のオーガナイズの中心を担っておられる三輪正敬先生に敬意を表すると共に、感謝いたします。

 

被災した救援者にこそ支援が必要という三輪先生の呼びかけが的を射ておられることは、現地で実際に消防、市役所、社会福祉協議会職員の方々への治療を行うことで痛感しました。

 

また、関係諸機関や他の医療職との連携を最初から織り込んだ活動を立ち上げられたことが、被災した方々への有益な支援に繋がっているとも感じました。

 

日常の仕事をこなしながら枚挙に暇の無い広範な業務を担われている後方支援室の方々にも、お礼を申し上げます。今プロジェクトを支える後方支援の方達の存在の重要さは、現地入り前、活動中、帰ってからも感じ入り、頭の下がる思いです。

 

最後になりましたが、今回の震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、未だ行方の分からない方々、被災された方々、ご自身も被災されながら業務に従事されている方々に、少しでも早く安心して過ごせる時が来ることを衷心よりお祈り申し上げます。

 

[5月17-21日]                                                     石部愚観(勝也)

 

 「震災二ヵ月後の状況(気仙沼中学校地域について)」

 

東日本大震災から約二ヵ月後の五月一七日~二一日・午前までの五日間(正確には四日半)、災害鍼灸マッサージプロジェクトからPCATに派遣される形で、気仙沼市の気仙沼中学校・小学校・市民会館が隣接する地域に入りました(※PCAT=ピーキャット、日本プライマリ・ケア連合学会の東日本大震災支援プロジェクト)。

 

他の方の文章にある通り、これまで災害鍼灸マッサージプロジェクトは、岩沼市・名取市・塩釜市でボランティアを展開してきました。しかしそれは、直接市やボランティアセンターと交渉し、ボランティアに入り、活動を通して医師・看護師・保健師等の信頼を勝ち取りながら、被災者の身体と心をいやすという、とてもやりがいのある活動であると共に、大変困難な活動でしたし、今後も同様の苦労をされる事だと思います。

 

今回、私とI先生は、はじめから医師の集団に参加することができ、活動初日から医療者集団の一部に位置付られた所からの出発という事で、大変活動がやり易く、その面では恵まれた環境におかれたと言う事ができます。

 

まずは、我々の入った気仙沼中学校地域(中学校・小学校・市民会館)の避難所の状態を報告します。

 

食事に関しては、栄養士も入り、徐々に改善がされているところで、ボランティアによる炊き出しも有り、おやつやジュースが配られることも有りました。もちろん、好きな時に好きなものが食べられるというわけではありませんが、生きるために必要なものは提供されているという印象でした。もちろん、「おにぎりじゃなく、温かいご飯を茶碗で食べたい」とか、「ラーメンの汁が辛すぎる」といった声はチラホラ聞かれましたが、それは被災者も「わがままだ」と思って我慢しているようでした。「贅沢言っちゃ、いけないよね~」という言い方をしていました。

 

お風呂は、自衛隊のお風呂が有り、清潔を保つことができています。もちろん、一部で共同生活になじめず、風呂にも入らず、ずっと寝ているような方もおられました。

 

衣服に関しては、「自由に持って行って下さい」と張り紙のしているダンボールが置いて有り、服が山積みになっていたので、足りてはいるようです。「これから夏服が足りなくなる」という話は聞きましたが、現在は足りているようです。ただ、洗濯機の台数が少なく、洗濯は困難です。いまだに多くの方が手洗いをしています。我々が入った時期はまだ温かかったので、大丈夫なようでしたが、「冬はつらかっただろうなー」と思いました。また、乾燥機が入っていないので、「若い女性の下着を干せる場所がない」という事も問題になっていました。「乾燥機が入るかもしれない」という話はしていました。

 

上水道は大丈夫なのですが、下水道が復旧していない地域も有り、トイレは仮設、トイレットペーパーが流せずにゴミ袋に捨てるという所も有りました。気仙沼中学校地域は流せない地域なので、衛生管理が問題の一つとなっていました。あと、夏に近づき、虫対策も必要になってきました。食べ残しの食料による食中毒も問題になっていました。

 

住環境は部屋によってまちまちで、ひとつの教室に四家族くらいしかおらず、かなりゆったり過ごしている部屋も有れば、足の踏む場所が分からなくなるくらいマットとモーフがひいてある部屋も有りました。一応、各教室は地域ごとに部屋割されているようで、部屋割を変える相談をしたところ、多くの被災者が部屋を変る希望を出さなかったようです。「徐々に仮設住宅への入居が始まり、これでも少なくなったのよ」という話を聞きました。信じられませんでした。

 

医療に関しては、緊急を要する患者さんも少なくなり、緊急医療体制から健康をどう保つのかという福祉に重点が置かれるような時期に入り、避難所の患者さんをどう地域で再生した医療機関につないでいくか、引き継いでいくかが問題となって行くような時期に差し掛かっていました。

 

私は気仙沼小学校に行く機会が有りませんでしたが、中学校と市民会館にて、鍼灸マッサージを施術しました。始めに行ったのは、中学校の各教室を巡回し、被災者にマッサージをする活動でした。初日と二日目で、AルームからQルームまでの一七教室をまわりました。ノックをし、「失礼しま~す。マッサージで各部屋をまわっています」と言い、目が会った人から、「肩とか首とかこっていないですが、腰はつらくないですか」と声をかけ、マッサージをさせてもらいます。マッサージをする中で、「夜はよく眠れていますか、食事はおいしく食べられていますか、肩・腰以外に痛いところはありませんか」など、いろいろな情報を集めます。もちろん、不眠なら不眠の、胃腸が弱っている方なら胃や腸に関係するツボを使って、肩・首・腰以外ももちろん治療します。しかし、一回の治療で治れば良いですが、そうならない場合も多く、次にボランティアに入る鍼灸マッサージ師にも分かるように、カルテに名前、年齢、部屋番号、症状、どのような治療をしたのか等を記入し、必要なら医師・看護師・保健師に情報を渡します。

 

私がまわっていて気がついた事は、各部屋によって、雰囲気のとても良い部屋と悪い部屋が有る事です。あとから分かった事ですが、雰囲気の良い部屋は、地域の結びつきも強く、問題も少ないようでしたが、雰囲気の悪い部屋は、いざこざも多いようでした。もちろん、みなさん「ここに住む者は、みんな被災者だ」という事を分かっているので、表立ってケンカしたり意地悪をしたりすることはないようでしたが、不満やうっぷんが少し溜まっているようでした。危機的な状態という感じはしませんでしたが、かなりいろいろなモノが溜まっているようでした。

 

次に思ったのが、首のコリ、肩のコリ、背中のコリ、腰痛などがほぼ全員に共通して診られました。また、「むかし椎間板ヘルニアを起こした」という方は、だいたい坐骨神経痛をともなっています。床の生活が長いので、ヒザがもともと弱かった人は、必ずヒザを痛めています。季節の変わり目のせいかもしれませんが、胃腸の調子が良くない被災者も多くおられました。ストレスからくるものかもしれませんが、その辺の判断はつきませんでした。徐々に暖かくなっている時期で、日中は暑いくらいでしたので、冷えや冷えからくる諸症状を呈している方は少なかったようです。もちろん、皆無というわけではありません。

 

我々の活動時刻が、午前一〇時から一二時、午後二時から四時だったので、日中は被災者も少なく、ゆっくり被災者の話を聞くことができました。もちろん、がれきの撤去などから帰って来る被災者にこそ、マッサージなどのボランティアが必要ではないかという考え方も有りますが、私個人の考えとしては、「外に出て活動できる被災者は、動けているのだからまだマシで、避難所に残って何もすることが無い被災者にこそ、声をかけ話を聞く活動が必要ではないか」と思っています。もちろん、一番気に掛けなければならない方は、マッサージも受けず、「うるさい、もう帰ってくれ」と言わんばかりにずっと背を向けて寝ている被災者なんですがね…。

 

もちろん、三輪氏の指摘通り、震災の話は聞きません。被災者が話してくる時は聞きますが、あえて掘り下げることはしません。もちろん、「話す事によって、気持ちの整理をしている」という事も有りますので、話をさえぎる事はありません。

 

各部屋を巡回する活動の他、鍼灸マッサージルームで治療することもできました。中学校では体育館の用具室を、小学校ではテントの一つを、市民会館では空いていれば談話室の和室を使う事ができ、プライバシーのまったくない被災地で、唯一他人から隔離され、リラックスして治療を受けてもらえことができました。

 

その中で、「悲しくも無いのに、涙があふれて来る時が有る」という被災者に出会い、治療をしました。「朝、手がこわばる」という女性で、井上先生が「母親がリウマチを患った事が有る」という事を聞きだしていましたので、翌日の朝、救護班の整形外科医に紹介をして、診察してもらいました。診察の結果は、「具体的な関節の症状も無く、観察して行きましょうね」と言われたそうですが、それでも「診てもらった」ことで安心したようです。私も、「もしリウマチが出てきても、今は副作用の少ない良いお薬も有るので、心配しないでください。」と伝え、「一番悪いのは、冷えとストレス。笑って下さい」と少々無理な注文をしてしまいましたが、笑ってくれました。もちろん、心から笑っている笑顔ではありませんでしたが、「笑おう」という気持ちになってくれただけでも、良かったと思います。

 


「今朝、胃の調子が悪かった」という被災者。主訴は肩こり。背中をマッサージしていると、いわゆる「胃の裏」のあたりの張りが強く、硬くスジバっていることに気がつきました。はじめは「ストレスだろう」と思い、スルーしようかと思ったのですが、どうしても気になり、「胃の調子、悪くないですか?」と聞くと、「あれ? どうして分かったの?」と言います。「お腹が張ってきたけど、薬を飲んだら、治ったよ」と言うので、救護班の所でもらったのだろうと思ってよくよく話を聞いてみると、「震災前に、近所のクリニックでもらった」という事が判明しました。「よく震災前の薬を所持していたな~」とビックリしながらも、その方には、「保健室の救護班に行って、今朝飲んだ薬と症状が会っているか、聞いて下さいね」と言い、医師には「相談に行くように言いましたが、来ましたか?」と問い合わせました。医師からは、「まだ来ていないが、午後も来ないようなら、看護師か保健師に(部屋に)行ってもらいます」という返事をいただきました。

 

その他、私が直接診た方ではありませんが、圧迫骨折の疑い、うつ病の疑い、椎間板ヘルニア由来の坐骨神経痛などを医師に紹介したようです。また、医師から逆に、「心の問題を抱えている方なので、鍼灸ルームでじっくり話を聞き、治療してほしい」という依頼も有ったそうです。
 

四日半というボランティアとしては「少し長め」の、しかしながら震災を経験された被災者の皆さんにとっては、「ごくごく短い期間」ですが、気仙沼で活動できたことで多くの事を学び、気付かされました。ボランティアの初めの三日間は、いろいろな事が多すぎて、被災された方の身体に向き合うことしかできませんでしたが、四日目の朝辺りから、被災者の身体だけではなく、心にも向き合える余裕もでき、良い治療ができたのではないかと思っています。

 

今回、一個人としては、非常に良い経験をさせてもらいましたが、「鍼灸マッサージ師として」は、悲しい気持ちにもなりました。
上でも書きましたが、今回我々は、はじめから医師を中心とするチームの一員として、現地に入りました。医師・看護師・保健師・栄養士・薬剤師・介護福祉士・理学療法士・作業療法士などがチームを組んで、その地域を、その避難所を、その避難所のこの部屋を、そしてこの被災者を、どうすれば健康にし、健康を保ち、生活を改善することができるのかを一生懸命考え、行動していました。その中で、我々鍼灸マッサージ師も、被災者の身体を治療し、心によりそう中で色々な情報をくみ取り、必要な情報をチームにあげる活動をしてまいりました。

 

実際には、「中学校にもう余分なイスが無い」という事で、取り入れられませんでしたが、「長時間寝ていることが多いので、首コリ、背中のコリ、腰痛が多いので、イスとテーブルを各部屋に入れられないか」という提案もしました。
しかしそれは、気仙沼でもごく限られた地域の、気仙沼中学校・小学校・市民会館での活動であって、それ以外ではまったく皆無と言っても良いと思います。こんなにも我々は役に立つのに、それを派遣する全国的な、統一された、全員加入の組織が無いという壁に、どうしても突き当らざるを得ないというのが、鍼灸マッサージ師としての私が感じた一番の事です。

 

もちろん、一匹狼気質だから、鍼灸マッサージ師という仕事を選んだのかもしれません。私も、ごちゃごちゃ指示されるのが嫌で、数ある医療関係の仕事の中から、看護師や理学療法士等の選択肢もありましたが、結局は独立開業権の有る鍼灸マッサージ師を選択しました。
しかし、現地の状況を見たり、「どの鍼灸師会にも所属していないが、ボランティアに行きたい」という熱い思いを持つ鍼灸マッサージ師の姿を多く見たりするなかで、単発の、「はい揉みました、気持ち良かったです」の活動にしては「もったいない!」という気持ちを強く持ちました。


もちろん、「はい揉みました、気持ち良かったです」が我々の治療の基本です。気持ち良くも、楽にもならない治療は治療ではないと思っています。しかしそれだけではもったいない。我々のところには、医師や看護師、毎朝血圧を測りに来る保健師にさえ話していない、被災者の生の声が多くよせられます。それは、治療時間が比較的長く、プライバシーにも配慮され、身体を触れさせてもらう事や実際の治療によって、心を開いてくれる被災者が多いからです。

 

それなのに、何ともったいないことでしょう…。
 我々はこんなにも使える存在なのに…。

 

 

ツイッターによる活動の回顧録です (yarbo11 先生より)

  

2011/5/5 10:38   昨日、宮城県岩沼市の震災ボラから戻ってきて、川崎でちょっと仕事して、今朝自宅に戻りました。とりあえず、災害鍼灸マッサージプロジェクトのみなさん、三輪先生どうもありがとうございました。ひとまず、お礼まで。

  

2011/5/8 21:57  4泊5日のボランティア活動について、今後の為にも、自分の為にも、詳細な記録を残そうとしてるのだが、どうもまとまらない。

2011/5/8 22:13  とりあえず、ボランティアから帰ってきて、今現在こころがけていること。①常にベストな自分でいられる自己管理能力のアップ。②治療技術のアップ③ボランティア継続の為の、時間とお金のやりくり。

 

2011/5/16 22:23   震災ボランティア活動第2弾は、N先生の尽力により、宮城県石巻に行くことに決定しました。

2011/5/16 22:30   昨日、なじみの美容師さんと、何かの拍子に震災ボランティアの話になった。岩沼・名取に行ってきた、と言ったら、「立派だ、立派だ。」と連呼され、「これは義援金だ」とタダでカットしてくれた。とりあえず、Yさん、ありがとうございました。がんばります!

2011/5/16 22:41   岩沼・名取に行ってきて、もちろん地震・津波被害の悲惨さは目の当たりにしてきたけど、何か実感がわかなくて。震災ボランティアとして活動してみたけど、何か、ふつうに、ちょっと遠くへ出張して、仕事してきたような感じで。何だろう、この感じ?

 

2011/5/17 22:43   5/1~4まで、鍼灸マッサージ師も最大16名いて、他の一般ボランティアも岩沼のiプラザに400人だの600人だの殺到してて、何かGW中のお祭りのイベントみたいな雰囲気があって、初めての土地、初めてのボランティアだったせいもあって、興奮と緊張のうちに、あっという間に5日間は過ぎた。

2011/5/17 22:56   ボランティアに集まっている人の熱気を強く感じ、復興にかける人々の情熱も強く感じる一方で、どうにもならないというあきらめや、ひらきなおりや、やりきれないという気持ちをも強く感じるという状況。

2011/5/17 23:01   つまり、様々な感情やエネルギーが渦巻いてる状況で、自分を見失わず、自分のベストを尽くした施術を行わなくてはいけないのだが、それがなかなかどうして、うまくいかなかった。

2011/5/17 23:09   結局、初めての震災ボランティアは、極度の興奮と緊張のうちにあっという間に終わった。まさにあっという間。帰省して、すぐ元気に3日仕事して、4日目の日曜日にどっと疲れがでて、ほぼ丸1日ボーっと過ごすということになったのだった。

2011/5/18 21:01  ボランティアって、皆自腹でがんばってんだと思ってた。医療従事者の多くが職場からの派遣という形で有給で活動されているんだそうだ。知らなかった。

2011/5/18 21:06  それにしても、ボランティアを通じてあらためて、一人でできることなんてたかが知れてるな、と思った。ボランティアも、さまざまな人たちの協力があってはじめてうまくいく、と強く思った。

 

2011/5/22 21:13   震災ボラの経験は大きい。5月から新人2名の直接指導を始めているが、今回は腹を立てることもなく、快適に順調に研修が進んでいる。自分達が非常に恵まれた環境にあり、幸せな状況にあることを、何よりも自分自身がよくわかっているからだ。

 

 

2011/5/30 22:24   NHK「鶴瓶の家族に乾杯再会編・石巻市」をみた。画面に映し出される、老若男女子供の最高の笑顔、凛とした真顔、涙ぐむ顔、涙を流す顔、何かをぐっとこらえてる顔、さまざまな顔に目が釘付けになる。 何か、忘れていた「人間の尊厳」を見た気がする。たまたま見たんだけど、見られて良かった。

 

 

 

[5月5日]                                                           曽我清一

 

今回の活動について感じたことは、我々鍼灸マッサージ師は被災地から本当に必要とされているのかということが気になりました。

 

当日のスケジュール
 8:30 ミーティング ホテルグランドパレス塩釜
 9:00 塩釜港出発
10:00 寒風沢島到着
          廃校体育館で施術開始
14:50 施術終
15:00 寒風沢島出発
16:00 塩釜港到着

 

私の行った寒風沢島では、10時頃に現地に到着したとき体育館には誰もいませんでした。
5日以前にマッサージ等を充分に満足されて来なかったのかもしれませんが、そんな雰囲気ではないように感じました。
その後、11時過ぎに6人の住民が来て2人の施術師で2時半ころまでマッサージしました。

 

ボランティアをする我々の気持ちと、受ける側の気持ちがずれているように感じました。

 

それは、世間からみた我々業界への認識が低いからだと思います。

 

単なる慰安だけではなく、こういう機会にチラシなどを作って東洋医学の理解を深めていけるといいと思います。

 

それと我々の意識の低さもあります。
事務局に「ネームプレート」は必要ですかと問い合わせたところ、「ガムテープを胸に貼って対応します」とのことでした。
医療チームではありえないことです。

 

この経験を業界全体で共有し、東洋医学の普及につながればいいと思います。
それが、被災地の鍼灸師たちの援助になると思います。

 

※後方支援より補足
ネームプレートについて、塩竃活動当初、応急的にガムテープを代用したことがございました。
ご指摘頂きありがとうございます。

 

 



 

[PCATでの活動 5月1日-5日]               福嶋 美奈子

 

RHITEプロジェクト(東京大学/自治医科大学/日本プライマリ・ケア連合学会(PCAT))が、避難所での健診を実施するのに併せ、避難者のストレス緩和、予防措置等を鑑み、災害鍼灸マッサージプロジェクトに、鍼灸師派遣の依頼があり、今回は、その一員としての参加だった。

 

  • 被災地の情報などは、断片的にはあるものの、細かい部分に関しては、結局行ってみて、という状況であった。
  • 当初、石巻で活動の予定で、宿泊地・松島に入ったが、急遽、気仙沼に変更となり、被害のひどかった、松島・南三陸の海岸沿い、途中、山道を通り、気仙沼入り。
  • 気仙沼の市街地は、今だ、がれきの山。港には、黒こげの船がそのまま放置状態。
  • 気仙沼小学校・体育館内においては、テントをお借りし、施術所とした。
  • 小学校から少し下った所にある、公民館においては、施術用のスペースが無い為、ここでは、皆さんの寝るスペースにて施術。

 

◆施術の環境

  • テント内では、プライバシーも守られ、肌も出し易く、心の悩み、愚痴など、結構、聞いてあげることができたが、オープンスペースでの施術では、他の方々がいる中でおこなう為、肌は出しにくく、プライベートな話しは、しにくかった。
  • 施術の内容
  • 殆どの方が、鍼は初めてということであり、又、震災の影響で余計、過敏になっているところもあり、最初は、恐る恐るという感じの方が多く、刺さない小児はりが、とても役にたった。
  • 実際、筋肉層は、緊張していても、皮膚表面は、弛緩している方が多く、弱刺激でも、十分な効果を得られたと思う。
  • 又、煙は、出さないで欲しいということで、お灸が使えず、しかし、腹部・腰部等、とても冷えた方が多かったので、ドライヤーを用いた。うつ伏せでのふくらはぎを、施術者の手にドライヤーを当てながら温めると、皆、眠ってしまった(殆どの方が不眠を訴えている。)。火を使わない「せんねん灸太陽」もお手軽で重宝した。主訴は、肩コリ、腰痛、便秘、胃のモタレ、など。

 

◆気になること

  • 睡眠導入剤を使用している方が多い。 
  • 集団生活ゆえの小さな出来事が、ストレスをうんでおり、又、異常な程、周りに気を使っている方もいる。
  • 津波を目の当たりにした子供の中には、いまだに、水が怖い為、お風呂に入れない子もいる。
  • 生活の場が廊下であったり、食事も決して十分とは言い難い状況(ある日の昼食:白おにぎり1個、手のひらに乗るくらいの野菜炒め、牛乳パック1個)。
  • 常駐のナースを始め、スタッフさんは、かなり、忙しく、彼らの体調も、とても気になる。

 

◆鍼灸以外のこと

  • 外は、桜を始め、花々がとてもきれいなのに、部屋から殆ど出ない(意欲が無い)、出れない方も多く、宿の庭先の桃の枝をたくさん頂いて、その方々に配ったところ、無表情だったおばあさんが、花を見て、「わー、きれい」と頬を紅潮させたのが印象的だった。
  • 津波にのまれた所は、依然、がれきの山だが、少し高台に行けば、普通の生活をしており、
  • ギャップがある。 従い、食料、宿泊施設等は、少し、車を走らせれば、確保できる。
  • 水・電気は、全く問題なし。

 

◆我々の役目

  • 生活の身近にいる人には、言えない、愚痴や悩みを話すには、我々は、丁度良い距離感にある。感情を押し殺して、無表情だった人が、泣いて、笑うと、すっきりした良い顔になる。
  • 本来ならば、定期的に継続して診ていきたいところだが、そうもいかないとなれば、せめてこの活動が数珠のごとく、繋がっていくことを、切望する。
  • 今回、医療チームの一員としての参加は、「鍼灸師」という立場的にも、大きな成果であったと思う。

[4月26-30日]                                              鎌倉 要子

 

私は4月25日厚木方面の方の車に同乗させていただき夕方4時頃ホテル小野に到着しました。
現地のリーダーに連絡を入れ、夕方のミーティングに参加しました。
その後、リーダーの薦めで沿岸部の被災地を見に車で行きました。
市内は普通にお店も開店しているのに沿岸部は全く別の風景でした。
家は流されて倒れているものや半分に裂けて家財がむき出しになっているもの、お寺も外組みだけ残っていました。道路は突然くぼんで落ち込んでおり信号機や電灯も無いためとても夜に通れるものではありません。
このあたりで暮らしていた人々が市民会館にいらっしゃるのかと思うと胸がさける気持ちでした。
4月26日は朝8時からミーティングを行い、市民会館にいらっしゃる方々の血圧が全体的に高い事を知りました。睡眠不足が続いていたりPTSDの影響があるようです。鍼灸師マッサージ師たちが常に部屋を回って健康状態を見届けることは治療をする云々にかかわらずとても重要であると感じました。
私は岩沼市、名取市で約37名の方を診させて頂きましたが、今まで鍼灸を受けた事がない方がほとんどでした。しかし、この機会で鍼灸に対しての考え方かわって来ている方々が増えて来た様に思います。そういう意味でも行ってきて本当に良かったです。これからも、スタッフに皆さん大変なご苦労をされていると思いますが、これからも是非続けて頂き、私もまた時間ができたら参加させていただきたいと思います。
本当にありがとうございました。

 

 

 

【5月3日-6日】                          畠中律

 

O先生と私はマイカー利用で参加させて頂ました。5月2日(月)早朝出発し、5月3日(火)~6日(金)までみっちり活動させて頂きました。

① 出発以前に知りたかった事、不安だった事。

・アクセス(道路状況、コースの選択・・・通行止めがあったりして!ガソリンスタンドはどうなっているか?)

・トイレ(最悪オマルとビニール袋を考えていた。)

※ 水、食料、ガソリン、テント、寝袋、仕事場所、仕事時間、治療用具などその他一切胆が決まっていれば問題なし!

② 実際に準備したこと。

ガソリン20リットル、テント、寝袋、毛布、長靴、傘、

食器、ガスバーナー、カートリッジ(エピガス)、

水20リットル、玄米おむすび16個(シャケ、梅干し)、天然塩、パリパリ海苔、沢庵、ラーメン6個、フランスパン大4本、マルメロジャム1瓶、缶詰(アンチョビ、サンマ、シーチキン)、オリーブオイル、バジル、6Pチーズ2箱、

日本酒4合、赤ワイン1本、ウィスキー1本、缶ビール6本、その他おかし500円以内。

 

③ 【活動・行動内容】

5月2日(月)午前8時埼玉県新座出発―(大泉で)外環道―東北道―(富谷で)仙台北部道路―(利府で)三陸道―(利府・塩竈で)県道3号線経由―本塩竈駅前グランドパレスホテル(朝グランドパレスに電話してこのルートを教えてもらった!)

午後3時前にグランドパレスに到着。周辺を探索。海辺の緑地公園に水の流れるキレイなトイレを確認して、テント場と決める。(小高い丘があり八重桜が満開でした。)

夜7時に塩竈市役所でミーティング。初めて仲間の先生方と会う。翌日のスケジュールを承る。以降グランドパレスの1階ロビーで、

8時半ミーティング=当日のスケジュール確認
19時ミーティング=当日の報告及び翌日のスケジュール発表‥‥の繰り返し。

 

5月3日(火)塩竈市立病院

5月4日(水)野ノ島→夕方から環境課

5月5日(木)塩竈市役所

5月6日(金)桂島→(夕方から)塩竈市役所

・・・

5月7日(土)岩手県三陸町吉浜

5月8日(日)帰京

 

④ 【治療活動】

今回事前に考えて準備していた事があります。

1. マイレドックと言う治療用リングを主体とした治療を体験して頂く。

2. 体験して、効果を実感して、やり方を覚えてもらう。

3. 治療後、リングをプレゼントして、以降辛いときはご自分で治療出来るようになってもらう。

出来れば隣人に使ってあげられたら最高です。

やり方は、リングを指にはめ、コロコロコロリンと1分間転がすだけ!

(拇指と人差し指)のコンビで腰痛、座骨神経痛!(その領域のあらゆる症状に)

(薬指と小指)のコンビで頸肩のコリ!(その領域のあらゆる症状に)・・・ひたすらこれだけ覚えてもらう。

 

1. 副作用なし!(やり過ぎても問題なし)

2. 指1本1~2分!

3. いつでもどこでも簡単に出来る!

東京のマイレドックを使っているおばあちゃま達から「私たちは何にも出来ないから、せめてリングをプレゼントさせて下さい。」と預かって参りました。毎日せっせと使って楽になって下さい。そして周りの方々の辛いのも治してあげて下さい。そう言ってみなさんに快く受け取って頂きました。

  

桂島で一緒になった床屋さんのボランティアの方々、帰りのフェリーの中で、緑地公園のテント場で会った散歩のご婦人方など含めて、O先生と2人で58個のマイレドックがプレゼント出来ました。これらが塩竈の復興支援の小さなひとコマになって行ってもらえたら幸いです。
以上報告を終わります。

最後に素晴らしく刺激的で毎日120%充実した日々を与えてくれた三輪先生、後方支援の方々、一緒に活動させて頂いた先生方、リーダーのK先生、O先生、Kさんに感謝します。

5月11日

 

【PCAT("Primary Care for All" Team)での活動報告】         岸本和可子

 

私たちは「災害鍼灸マッサージプロジェクト」を通じPCATを紹介していただき、RHITEプロジェクト健康調査の一環として、12名の鍼灸・マッサージ師で、気仙沼小学校・中学校・市民会館を中心に活動いたしました。
鍼灸の活動をする中、気付いた点を報告いたします。

  

最初にPCATの活動内容とRHITEプロジェクトに関して

PCAT・・・・PCAT(家庭医療・総合診療)の学術団体として特色ある災害支援を行なうべく、医師をはじめとする多職種の医療専門職で構成された災害医療支援チームを被災地に派遣する(PCATホームページより)

RHITEプロジェクト・・・・東京大学/自治医科大学/PCATなどの合同災害医療支援プロジェクトです。現在、被災地域に属する3つの自治体において、避難所での健診を実施しています。(PCATホームページより)

 

活動期間は実質GW中に検診、5/8を目処に結果のフィードバック。

私たち鍼灸師はRHITEプロジェクトの一環として召集され、活動してきました。

鍼灸ボランティアを行なう上で、PCAT(日本プライマリ・ケア連合学会)を通じ派遣された事は鍼灸ブース立ち上げ時に優遇されており、中学校で女史剣道部の一室を、小学校で女子更衣室と救護室の二つのテントを、市民会館では談話室(畳の部屋)を借り、活動することができました。
鍼灸の需要はとても高く、鍼灸ブースと訪問施術を併せ、5/4は気仙沼中学校だけでも一日38名の方を施術いたしました。

 

避難者は、避難生活が長期にわたり、様々なストレスから、肩こり、不眠を訴えていらっしゃいました。特に肩こり、不眠は、鍼灸マッサージの得意分野です。頭や首のこりをほぐすことで、深く眠れるようになります。
ある避難者は、避難所に来てから午前3時まで寝付くことが出来ないとおっしゃっていたのですが、鍼灸治療を受けられた当日、夜10時には寝付くことが出来たと喜んでいらっしゃいました。

 

また、変形性膝関節症や腰椎ヘルニアなどで、被災前は整形外科や鍼灸院で定期的にマッサージや鍼灸治療を受けられていた方は、治療の継続困難を訴ええる方が多くいらっしゃいます。今までの治療を受けられず、痛みが出ることにより、動くことが億劫になり、運動不足が重なり、入浴が数日置きになるなど症状には悪循環になっていました。
ご本人も運動不足や入浴が大切とは自覚されていますが、症状悪化のため困難なケースが多いようです。

 

また、鍼灸マッサージの治療を通じて、体と心がほぐれ、施術者に現在の状況を少しずつお話してくださるのは、嬉しい反面、今後のケアの難しさを感じました。
鍼灸ブースは個室を借りることができ、避難所では、プライベート空間がない中、鍼灸を受ける際に、個室に入られることに安心された様子を感じました。
避難生活が長期化する中、「心のケア」の重要性を感じていらっしゃる方も多いと思います。鍼灸治療の間に心を打ち明けられることも多く、積極的に症状を訴えられない方の情報も、専門の医療スタッフと情報を上げることで、被災者のサポートに繋がる可能性があることを感じました。

 

今回、PCAT及び、RHITEプロジェクトの活動に参加させていただいたように、他の医療と鍼灸との連携をとり、お互いの分野を補助し合っていくことができれば、被災者及び患者様の支えになるのではないかと思います。
また、今回のRHITEプロジェクトは避難所での活動が中心となり、期間も短期間のものでした。PCATでは、避難所でのケアの他、在宅被災者や、この震災で在宅支援を受けられなくなった方の支援を行なっています。
鍼灸師も、医療のチームの一員として携わっていくことが今後の被災者支援につながる可能性を感じました。

 

最後になりましたが、気仙沼の職員、避難所のスタッフの皆様、PCAT及びRHITEプロジェクトの皆様、災プロの後方支援の皆様、活動を支えてくださった皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。
東日本大震災の被害を受けられた方の一日も早い復興を心より願っております。

 

[4月22-25日]                                                    三浦由夫

 

鍼灸ボランティアに参加するにあったって。
「これからは、あなた方の(鍼灸師)の時代です。」
これは16年前の平成7年の阪神淡路大震災の際に鍼灸ボランティアに参加して、たまたま乗り合わせた医師の言葉です。続けて「私達、医師は、このようにレントゲンも薬も無い中では、まったくの無力です。毎日死亡診断書を書いています。あなた方は鍼一つで多くの病気を治せるのです。」と言って、私達の手を両手で握られました。事実、ボランティアの現場では、医療スタッフが血圧や脈拍などのバイタルを測定しているだけで、私達は、建物の下敷きに長時間なったせいで腰痛が治らない人や、肺癌の手術後に震災に会い薬も無く痛みに苦しむ人、避難所で風邪をこじらせ発熱した人、恐怖で不眠の人、PTSDの人、その他モロモロの患者を治療しました。
この医師の励ましにもあるように、鍼灸は素晴らしい力を持っているのです。私自身、この事を忘れずに、直ぐにもボランティアに参加したかったのですが、やっと、このプロジェクトに出会ってその念願を果たせました。
これから、鍼灸ボランティアに参加をされる方、考えておられる方、何が出来るかなど考える必要はないのです。鍼灸の素晴らしい力を信じて、力一杯に頑張って下さい。

 

鍼灸ボランティアに参加した現場から。
私は2つの目標を持って、現場に臨みました。1つは
体調を壊しながら放置されている子供達を診て見たい。という目標です。
幸いに子供達を診ることは、その時のリーダーのN氏が子供達の人気の的でしたので、遊びに来た子供の中から、年長の女子に金銀の鍉鍼を見せて、痛くなく、気持ち良い事を確認してから、治療に入りました。
「ずーと、喉が痛い。」と言う訴えです。鍉鍼で照海穴と外関穴の両側に治療を加えて、「唾を飲み込んでみてごらん、」と言うと、「あれ、痛くない」と大喜びで、一緒に居る4年生の女子に「あなたも診て貰い」と言ってくれました。その子は、「咳が止まらない」と言う訴えです。その子の治療が終わると、もう一人の同級生の女子に勧めてくれます。その子は「逃げる時に、足の親指を踏まれて痛い。」と言う訴えです。親指にスプーンで擦過鍼を施して、「歩いてごらん」と促すと、ピョンピョン跳んだりして、「痛くない、大丈夫。」と歓声を上げます。それからは、常に3~4人の子供達が治療室の周りにきます。咳の出る子は、翌日の朝・昼・夕の三回「お灸が気持ち好いからして。」と友達を連れて来ます。子供の治療を親や大人が見に来ます。賑やかで楽しい、治療室ができあがりました。

2つめは 
体調不調と共に、心を傷つけている人々を診て見たい。という目標です。
私は首藤傳明先生の門下生で弦躋塾の塾生の一人です。弦躋塾では、体を治す事と共に、心を元気にすることを、大切にして教えておられます。それだけに心に傷を持つ人々に元気になって貰いたいのです。咳が止まらず腰の痛い男性、眩暈の女性。血圧高く腰や膝が痛く
咳が止まらないと言う女子を治療したお陰で、「咳が止まらない主人を診て欲しい。」と呼びに来られました。階段の踊り場を居住スペースにされている所に行くと、女子の祖父が顔を赤くして苦しそうにねています。何日かその状態だそうです。「鍼灸治療だが」と断ると、「なんだ、鍼か・・・まあ良いか。」と期待しない様子です。脈は早く。呼吸は浅く、促迫しています。咳が止まらないようです。肺炎の一歩手前です。本人は「眠れないで疲れているだけ。」と言い張ります。
金銀の鍉鍼を使って、環跳穴で呼吸を治し、肺虚でしたので、尺沢。複溜。照海。外関。の諸穴と帯脈穴に治療しました。治療が終わると急に立ち上がり、「あー息が楽になった。」と体を動かします。翌日の朝、私が出てくるのを、避難所の前で待っていて「昨夜は初めて良く眠れた。」と御礼をいいました。避難所に入ると、お祖母ちゃんが待っていて「本人は言わないけれど、咳も無く本当に楽そうでした。今朝はやる気が出て体操に参加しました。有り難うございます。」と御礼を言われました。

この後、休憩に入る前に、鍼灸室の前に男性が休んでいました。聞くと「外出しようと、横の出口から出たところで、足に力が入らずフラフラした。後頭部が何だか重苦しい。」と呂律の回らない声で訴えます。舌を出させますと、震えて出ません。(舌根がまく、と言う症状です)脈は腎経と肝経が弱い肝虚です。脳梗塞の前触れでしょう。」と告げると「昨年の秋に脳梗塞をしました。その時と同じです。」と横から奥さんが報告しました。

 複溜穴と太衝穴それに帯脈穴に治療。立って貰うとしっかりしています。今日は安静にしていること、その他、食事や生活の注意をして帰ってもらいました。その男性が翌朝、自転車の練習をしています。笑顔で「体がなまるといけないので、運動している。」と言います。
この後、名取消防署で腰痛と疲労で心がくじけそうな、消防士を治療しました。大きな声で、「鍼灸がこんなに素晴らしいものとは思わなかった。腰も体も軽く、元気がでたと大喜びです。
その後、市役所で疲労や、食事の変化から、体調を崩した人を何人か治療しました。
鍼灸室では、腰や膝が痛くて立てない。」と呂律の回らない訴えをする女性がいました。血圧がいつも60位なのに、今は110を切ります。脈拍も数です。「何だか、恐い、恐い」と言います。「何が恐いか」と問うと「とりあえず、何か起りそうで恐い。」戸訴えます。朝に、高血糖でインシュリンを打ち、血糖降下剤を飲み、風邪薬を飲んだと言います。低血糖ショックから脳梗塞状になったようです。砂糖のお湯を飲ませ、腎虚の治療をすると、言葉も正常になり、「恐い、恐い」と言うのも消え、立って貰うと、「あれだけ立てなかったのに、なんなく立てる。」と大喜びです。

その他に風邪薬の連用から、言葉の呂律が回らず、手足が振るえ、眩暈がする脳梗塞の前駆症状の男性も治療して、最悪期は、回避できました。
その他に、
咳が止まらず腰の痛い男性、 眩暈の女性(その場で眩暈が無くなる)。 血圧高く腰や膝が痛くやる気の無い女性(翌日、初めて正常血圧になり体操が出来た)。 今まで病気をした事が無いのに、避難所に入ってから、吐血、下血が続き、その後、眩暈、頭痛、腰痛が 続きやる気のない女性(3日続けて治療。残ったお墓を娘達と直しに行ける)。 手の中指がしびれ、力が入らず何も出来ない女性(力が正常になり、用事が出来る)。 筋無力症の診断を受けて、手首が上がら無いのに、被災者を励ます為に、ピアノを弾く女性(手首が上が り、苦しみで汗ばむ状態が無くなる。見ていた人、皆が歓声を上げる)。
などなど、多くの人の治療にあたりました。こんなに充実して効果のあった治療も無いほどです。しかも、金銀の鍉鍼の軽い刺激の治療でこんなに良く治るのです。
恐怖や想像を絶する悲しみを乗り越えた人々だけに、治ろうとする力も強いのでしょう。私達、鍼灸師は、そんな力を少し助けてあげればよいのです。

 

 

* 後方支援室より補足です。

 

文章中に記述のある脳梗塞の疑いがあるとの所見の患者様お二人に関しては、保健師さんや後続の先生にも申し送りしており、お元気にされていらっしゃるとのことです。



 

[5月3日-5日]                     はちまん    

 

塩竈での活動で、清掃局の事務所、消防署、離島での鍼灸マッサージの施術。
島での鍼灸マッサージは、施術を受けて頂いた方に良かったと言って頂き
自分の治療院で声を掛けて貰うのとまた違った感動を覚えました。
金銭的にも日程的にも厳しいなか、ボランティア活動をして良かったと思いました。

 

 

[4月30日-5月4日]                       畠中美希

 

私は、4月30日~5月4日までの5日間、岩沼、名取で施術させていただきました。始めは、岩沼市民会館のやや重い雰囲気に押されそうになりそうで、マッサージどうですかと問うのも、かなりのエネルギーを使いました。同じ言葉でも、ちょっとした言い方ひとつで、人の気持ちは変わるものだと。避難されている方々は、避難所生活が長いためか、自身の感情を包み隠さず、表してくれていたと思います。だから、こちらとしても、変な壁がなく、接することができました。
津波が来た瞬間の話は、ボランティアのメンバーで集まったときに、それぞれが、患者さんから聞いた話を伝え、声も出ない感じでした。ただ、知らなければならない事実で、伝えていかなければならない事だと思います。
この度、短い期間で出逢った沢山の方々。別れるときには、随分前からの付き合いだったのかなと思うほど、心寂しくなりました。でも、出逢ってよかったと胸を張ってゆえます。三輪先生を始め、後方支援の方々、多くの方の援助で、私、ボランティアとして活動することができました。この場を借りて、本当にありがとうございました

 

 

 

[4月-5月]                             藤井正道

塩竃:熱情あふれる治療家たち 災害鍼灸マッサージプロジェクト塩竃チーム 

 

◆何よりも大切な士気と熱情

大切なのはチームの士気、士気と個人の熱情がすべての源泉です。
塩竈チームがまず感謝したいのは小河原先生。先発の小河原先生の交渉のおかげで浦戸諸島での活動ができるようになった。塩竃市の社協は島にはボランティアを送らない姿勢を続けている。
寒風沢島の惨状に心を痛めた高谷先生は多賀城の自衛隊の風呂(被災者、ボランティア向け)に来ていた人にも寒風沢島へのボランティアをすすめていた。高谷先生の意見を取り入れ、治療の手が空いたらガレキ撤去も手伝える人材をということで、寒風沢島へ送るメンバーは体格、年齢を考慮して決めた。高谷先生の熱情はチーム全体の士気も高めていた。自分が現地を離れる朝のミーティングにも参加。寒風沢島をよろしくと訴えていた。
広島県岩国市からポータブルベットまで持って単身、車で駆けつけた藤本先生は野々島での宿泊を志願した。5月2日頃になると島での滞在時間の短さがチームで問題となっていた。島の人が仕事を終え、避難所に戻ってくる頃にボランティアは連絡船で島を離れる。宿泊すればもっと多くの被災者の治療ができる。宿泊も追求してみようということになった。ただし疲労を考慮し一泊を限度とする。藤本先生はぼそっと「僕、泊まりたいんですが」と志願してきた。おとなしそうだが力を秘めた若い先生。結局、避難所側の意向で宿泊はなくなったが、藤本先生の熱意はぜひ伝えておきたい。
行政ルートよりも個人のつながりの方が役にたつこともある。塩竃に実家のある今野先生のつながりから消防署での活動ができた。じつは震災のために署長の移動が4月ではなく5月1日となっていた。連休時は責任所在があいまいで正規のルートでは連休中の消防署での治療は不可能だった。今野先生が積極的に動いてくれたおかげで、疲れた消防士さんを治療できた。
塩竃チームのメンバーは積極的だ。次々に意見を出し、関係筋と交渉し活動拠点を増やしていった。市立病院での治療展開は久保医師の交渉力によるものが大きい。連休時に大幅に増えたボランティアの先生方も適切に活動することができた。紹介しきれない多くの先生方の熱意がボランティア活動を支えている。
                                                    


[4月18-22日]                                      KY

-災害時にこそ鍼灸師に求められるもの-

2011311日、午後226分、未曾有の大地震が、東北関東の沿岸部を襲いました。
すぐさま多くの人々から温かな支援の手がさしのべられ、その輪は瞬く間に日本全国から全世界へと広がっています。医療にたずさわる一員として、こういうときこそ行動しなければならない、そんな思いが強くなり情報を検索する毎日でした。そのなかで三輪正敬さんが立ち上げた「災害鍼灸マッサージプロジェクト」の存在を知ることになったのです。さっそく希望をつたえ鍼灸ボランティアとして、428日~30日までの3日間、被災地のひとつ宮城県岩沼市で鍼灸の医療活動に参加しました。そこで私たち鍼灸師はいったい何が求められたのかを考察してみたいと思います。

  

被災地に入る前の心の準備
 刻々と変化する被災地でのプロジェクトの活動状況は「災害鍼灸マッサージプロジェクト」のブログをとおしてその日に知ることができます。そこではボランティアに対し、必要な持ち物、被災者への対応の仕方、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)の知識や対応の仕方などがきめ細かに書かれ、それらを参加者は必ず一読し被災地へと向かわねばなりません。
 私もボランティア活動に多少、経験したにもかかわらず、今回は被災地へ向かうという特異な状況のもと、緊張と不安が交差し心穏やかではいられませんでした。
 テンションのあがった精神状態を落ち着かせようと、現場で簡単に記すことができる初診カルテや引継カルテを創案したり、PTSDの論文を読み直したり、血圧計の練習をしたりと意識的に多忙さを装っていました。
 出発が急に決まったため、すでに予約済みの患者さんには一人ひとりキャンセルの電話をしました。「ご苦労さまです、お気をつけて」と、大半の患者
さんから励ましの言葉をいただき、このひと言で少し落ち着きを取り戻したところです。

 

ミーティング
 到着した岩沼市は仙台平野の海側、街、山側の3つが合併して岩沼市となり、津波で被災された海側の方々、およそ300名が街にある岩沼市民会館に避難しているという状況です。
1日目の夕方5時から医療活動の拠点になっている岩沼市民会館の鍼灸室でミーティングが始まりました。その日にそれぞれ派遣された場所から治療を終えた鍼灸師、マッサージ師が戻ってきます。その派遣場所とは、岩沼市民会館鍼灸室、岩沼市役所保健室、岩沼市民会館内にある数か所の避難部屋、名取市役所、名取消防署の5か所です。鍼灸専門は岩沼の市民会館と市役所の2か所、他はマッサージです。治療の対象は被災者、市職員、消防所員など様々です。
 長期滞在のリーダーを中心に円陣をつくり、その日に気がついた事項をそれぞれ報告する。その内容を全員が共有するという、まさにチーム医療の理想の形をとっています。滞在日数の異なる鍼灸、マッサージ師が、このミーティングの場で初顔合わせとなり名刺交換し親交をあたためます。はたして「自分は何ができるのだろうか」と不安と緊張が漂う中にも、先発の方々から引継情報を伝えられ、ほっとするひと時です。ミーティングは朝、昼、夕と1日3回行われます。とくに朝は、その日のシフトが発表され担当する派遣場所が決まります。1日目のミーティングには鍼灸・マッサージ師6名、鍼灸師2名の計8名の顔合わせとなりました。

これがカルテ?
 ところで鍼灸の引継は、前任者と直接会って行われるのではなく、色々な制約から前任者が記入したカルテを読んで後任者が責任を持って治療にあたるというシステムになっています。ところがほとんどのカルテには主訴と施術部位しか書かれていませんでした。鍼灸師であればご存じのように鍼灸治療はカルテがないと治療が成立しません。つまりカルテを書くことによって、はじめて医療行為が行われたと認められます。50枚以上ある貴重なカルテの中味は、残念ながら引継に値しない責任のとりようのない「これがカルテ?」と愕然とするようなものでした。しかし、この問題は私たち鍼灸師ひとり一人が考えなければならない問題であって、遡ると患者さんに対する医療者としての責任問題にも繋がってくるでしょう。今後は共通カルテの共有が切に望まれます。



被災地にこそ患者中心の医療を
 2日目は岩沼市民会館の鍼灸室で被災された方々を対象に一人で治療するよう申し渡されました。ボランティアに参加されている大半の先生が数日間の短期滞在という共通の条件をもち、そのためか毎日、派遣先が移動するというシステムになっています。このシステムではどうしても医療者側の都合で動く、医療者中心の医療になってしまいます。たとえ数日とはいえ、ひとりの患者さんを同じ先生が担当する。そのことで被災された患者さんの心にそっと寄り添い支え、より強い信頼や安心が生まれるのではないでしょうか。それはチーム医療でも可能だし、また被災地だからこそ患者中心の医療が展開できれば鍼灸はすばらしいものになると思います。
 一方、鍼灸師にも患者さんの困っている症状に対して、滞在中の短期間でなんとか緩解させようと積極的なやりがいのある仕事に挑戦できるのです

 

思いの外少ないPTSD
 派遣先を移動することなく岩沼市民会館の鍼灸室に3日間通い、合計21人の患者さんと向き合うことができました。被災地に到着したのは震災からすでに1か月経過し、本来ですと被災された方々は急性ストレス障害(ASD)から心的外傷後ストレス障害(PTSD)へと移行する時期になります。心理学を学んだ三輪さんからは、前もってPTSDへの対処の仕方を教えていただき、それでも不安でいっぱいでした。ところが、いざ診療開始すると思いの外PTSDはゼロ。前任者のカルテにもそれらしき症状がまったく記されていません。なぜだろうか。そこにひとつの共通点を患者さんから見出すことができたのです。
 治療中、伏臥位から仰臥位になったとたん、堰を切ったように津波前の自分自身のことを語り始めたのです。
 「48年前、村で最初に運転免許をとったという女性」「たった一人で田畑を耕し、そのため坐骨神経痛になりひとりで灸をして治してしまったという女性」「歌手の北原謙二が大好きで「北風」という曲はいいなという男性」「ヘルシーダンスの全国大会に出場したという女性」。それは自分という人間がどういう人間であったか、知ってほしい、わかってほしい、認めてほしいということでした。すべて津波に流されてしまった今、自分を証明するものは言葉で話す手段しかなかったのでしょう。それぞれの過去の歴史の証明が一瞬にして消えてしまった今、だからこそ語ることによって、今の自分という人間を分かってほしいと願っているのかもしれません。
 このような場合、鍼灸は残念ながら無力です。静かに静かに話に耳を傾けるばかりです。しかし、そこにはひとりの医療者である鍼灸師の真摯な姿勢と「あいずち」「うなずき」の聴くスキルが求められたのです。

 

もっとも多い首・肩・膝・腰の痛みに求められるもの
 主訴として圧倒的に多いのが頸・肩・腰・膝の痛みでした。これらの症状に対しどう鍼灸師は対応すると患者さんの満足度が高まるのでしょうか。
 硬い床の上で1カ月以上も生活しているのですから当然、症状が発症してもおかしくない状況です。頸肩の痛みはタオルで丸めた枕の低さによるものが圧倒的に多く、頚椎症性の神経根症や胸郭出口症候群を発症させているものが病歴や所見から推測されました。膝痛に関しては足を投げ出した不自然な姿勢によって膝の周辺の痛みを発症させ病歴や所見から、伏在神経絞扼障害、坐骨神経痛、仙腸関節障害、総腓骨神経絞扼障害などを推測するものがあり、むしろOAを合併しつつもOA単独は少なかったように推測します。
 鍼灸治療は自由にまかされつつも短期間の治療とはいえ、鑑別が求められる症状が多く存在し、それと同時に鍼灸師に対し日常生活を改善するような積極的な助言をすることが求められていると感じました。

 

患者さんを支え自立をうながす姿勢
 患者さんと向かい合ったときに求められるのは、やはり医療の基本である患者さんを支えるための医療面接のスキルです。これは被災地であろうが、日常の私たちの診察室であろうが、どこであろうが、患者さんと向き合うときの基本は皆一緒。
 今回、被災地での医療活動は短期間ではありますが、鍼灸師である私自身が日常なにを考え治療をしているのか、その医療に対する姿勢が求められ、問われた気がします。患者さんに対する最終目標は、支えた結果の患者さんの自立です。被災された方々はもう自立への一歩を踏み出しています。その自立に向かって私たち鍼灸師が行動を起こすことが山ほどあるでしょう。
 このような貴重な体験を提供してくださった三輪さんはじめ災害鍼灸マッサージプロジェクト、ボランティアの方々に感謝申し上げます。

 

 

 

[4月18-22日]                             鈴木学

 

4/18-22日、4日間仙台近くの被災地岩沼市で市役所職員と被災避難者延べ36人の方々に鍼灸・マッサージの施術をさせて頂きました。

 

(1)ボランティア活動の感想
1.震災以来、無事な自宅に戻らずに、市役所に泊り込む岩沼市長、しかも被災者を慮り床に寝ている。
職員も交代で泊り込む日々が続く。トップに劣らず、職員のモチベーションも高い、疲れもたまっている。
そろそろ先が見えてきた、もうひとがんばり。
(岩沼市では6月を目処に被災者全員の仮設住宅が完成予定と聞く。尚、被災者避難場所の市民会館と市役所は離れている、市役所職員が被災者に直接職場を見られているわけではない。)

 

2.2階建て養鶏場、津波で一階部分1200羽もろとも流される。残った2階の鶏に今後の再建を託す。
高級玉子を産む若鶏は、買えば一羽1200円、当面資金の目処なし。経営者は82歳、奥さん78歳。二人で避難所生活、今回初めて鍼治療を受ける。その後、わざわざ生みたて玉子とってきて、お礼にと2ケース届けてくれる。被災者から支援を受ける、涙がでる。

3.やっと確保できた小さな旅館、電気・建設関連業者で一杯。旅館のある街中はほとんど被災なし。
最終日、清算願うが晩飯4回分は請求されず。”ボランティアで市に支援してくれた、せめて自分たちにできるお礼はこの位ですから” と。

 

4.被災者いる市民会館、横の空き地に自衛隊、まだ寒い東北、テントで野営する。
被災者300余名のため毎日3食炊き出しをする。外で作る、暖房ある市民会館、中をうろつくことはない。被災者へのボランティア治療後、隊員への鍼灸マッサージ施術を申し出る。
責任者が対応、”自分たちは大丈夫ですから” という。
更に”自分では判断できず、申し出があったこと上司に報告しておきます。ありがとうございます。”と、少し微笑む。言葉の裏に本心を垣間見る。武士は食わねど高楊枝、厳しい規律と頼もしさ、頭が下がる。


(2)ボランティア組織の感想

1.活動初期段階で鍼灸治療に必要な布団、電気毛布、電気ストーブを初め鍼・灸まで当面必要な道具はほど十分な量が揃っていました。当初これらを準備された本ボランティアを立ち上げたとお聞きする三輪正敬先生に敬意を表します。

当方は持参した鍼・灸も利用しましたが、これら必要物資の調達のためにボランティア団体として支援金(義援金ではない)の補助を受けているのかどうか教えてください。
現地にある用具等はボランティアに来た先生が持参した物で余ったものを寄贈してくれた物が溜まってのか、あるいは当初三輪先生が持ち込み置いていったものだけなのか?
いずれにせよ鍼灸の場合多少なりとも治療用品具の費用がかかるため、これらの購入費用が支援金で賄え、ボランティアに参加する鍼灸師が個人負担することなく参加できる体制ができればより良いと思います。

 

2.本ボランティアブログ中(※ブログ掲載文をそのまま記載しております)、三輪先生の言葉にあるように、対象者が大きく被災者とこれを支援している支援者に分かれます。
被災直後は、被災者への施術が主となろうが、被災から1ヶ月過ぎた辺りを目処に支援者への施術に軸足を移していくのがベターと思われます。現場で多くのボランティア先生も同じような感想を持たれているし、現場でもこれを意識した人的配分も考慮されつつあり良かったと思います。支援者側のボランティア受入れ承諾も必要で、被災者支援よりはハードルが高いとは思いますが。
ただ、支援者の中で自衛隊の皆様への支援がまだ実現していない。小生も現地で直接自衛隊現場責任者にお伺いしたものの判断はもう少し上の組織にある様です。早々に決済可能な上部組織へのボランティア活動の働きかけをしたいと思います。可能性がある場合は、改めて三輪先生ともボランティア派遣に関しご相談させてください。

  

3.時間の経過とともにPTSDが顕在化する、被災者を診る際に注意するよう、支援本部から指摘されていたと思います。
これを元に我々あはき師であるボランティアの一部が被災者の些細な言行動に過剰に反応している様子が見受けられましたので、今後支援本部からの支持内容に一工夫必要ではと感じました。
既に指摘されていますがボランティアに参加される先生方のキャリア、レベル、治療法に大きな幅があることは今回のボランティア活動に参加して改めて実感しました。被災地現場における我々あはき師にできることは、施術を通し被災者・支援者に寄り添い、肉体的精神的疲労を少しでも緩和することだろうと思います。病気兆候を見逃さないことは心がけるとしても、我々の立場で病気を作り上げてしまったり診断してしまうことが無いよう注意が必要と感じました。

  

また現場では、我々あはきボランティアと保健師さんとの定期的報告会が持たれており、医療従事者が連携をとりやすい環境を整えられたことはすばらしいと感じました。しかしながら保健師と看護師の役割がごちゃ混ぜであったり、そもそも保健師の役割を誤解されている方も少なくありません。できれば支援本部で、現場の医療支援体制の全体像をイメージし、プリント1枚ものを用意し新たに参加されるボランティアに配布できるようにするか、ブログのなかで、ボランティアに参加する方への中で本件の項目を設けられ紹介すること等をご提案致します。

  

《災害鍼灸マッサージプロジェクトより》

ご指摘ありがとうございます。

○これら必要物資の調達のためにボランティア団体として支援金(義援金ではない)の補助を受けているのかどうか教えてください。
→全て募金で賄っております。鍼灸道具は、使い慣れたメーカーなどがあることを考慮し、自前でお願いしています。

  

○支援者の中で自衛隊の皆様への支援がまだ実現していない。
→自衛隊は、岩沼の駐屯地だけでも3000名いらっしゃるそうです。施術者10人体制で一日10人治療したとしても1か月かかる人数です。自衛隊の方の疲労は、災害対策本部などを経て伺っているのですが、職員の方々同様、被災者の手前もあり受けづらい様子です。

○PTSDについて:ボランティアの一部が被災者の些細な言行動に過剰に反応している様子が見受けられました
→「ガス抜き」は良いのです。無理に聞き出すこと、際限なく聞き続けることのないように注意を、という指針です。以下、今いちど良くご覧いただければ幸いです。
http://www.human-world.co.jp/ahaki_world/newsitem/11/0419/110419_1_kinkyu.html

   

○病気兆候を見逃さないことは心がけるとしても、我々の立場で病気を作り上げてしまったり診断してしまうことが無いよう注意が必要と感じました。
→非常に大切な指摘だと思います。我々は、我々の医療の特性を生かしたいと考えております。

  

○できれば支援本部で現場の医療支援体制の全体像をイメージしプリント1枚ものを用意
→DMATの医師団がいらした初期から、公衆衛生の医師のいらした時期、地元の医師へ引き継がれた時期と、現場の医療体制もめまぐるしく変化しております。まず、直接連絡をする保健師さんへ、私たちのできることを紹介するプリントを準備しております。

 

  

[4月10-15日・24日]                       宮川里菜

  

今回、「災害鍼灸マッサージプロジェクト」に参加させて頂き、感謝の気持ちでいっぱい

です。
震災当初から被災者の方々の力になれないかとずっと悩んでいました。あはきワールドの号外メールが来た時に、これだ!と思い即応募しました。

このプロジェクトを立ち上げてくださった三輪氏を始め先遣隊、後方支援、同時期に活動を共にした方々に深く敬意を示すとともに参加できたことを誇りに思います。
私の、活動・要望・感想など、後方支援や現地で頑張っている方々・今後頑張って下さる方々のお役にたてれば嬉しく思います。

  

①活動
※これは私のやり方であり、皆様それぞれの方法があると思いますので、参考までに。

  

○岩沼市民会館でのマッサージ
・各部屋に巡回する際、また廊下ですれ違う時もそうですが、必ず笑顔で挨拶をするようにしました。基本的なことですが、それだけで初対面とは違い、信頼関係が築きやすくなりました。また、周りを巻き込みお部屋の皆さんと会話する事で、マッサージを受けない方の体調を把握することも心掛けました。個別でお話をする時とのメリハリをつけ行うと良いかと思います。

・治療の中で疑問点があった場合、自分の至らない知識を認識し周りの先生方にお聞きすることが大切だと感じました。幸運にもチームには全国各地の先生方がいらっしゃったので、意見交換を行いチームプレイで最大限の治療を被災地の皆様に届けることが出来たと思います。私も含め鍼灸マッサージ師は個人プレイが多いように思いますが、ここでチームプレイの大切さを学ぶことができました。

  

○名取消防本部/名取市役所
・消防本部では、勤務体制も通常勤務に戻りつつありますが、まだまだ疲労の色が強く出ていたように思います。20~30分という短い時間ですが、リフレッシュできる時間があるということだけでも嬉しいとおっしゃって下さいました。
血圧が高いので医療機関(保健師)との連携が必須です。本人達は病院に行く暇もなく、たまの休みは御自宅の瓦礫の撤去などしている現状です。
・名取市役所に関しては保健師さんとの連携が取れるようになり、その点は安心ですが、状況は消防士さんとさほど変わりません。
・どちらにしても、需要がかなり高く滞在時間を目いっぱい使い治療しています。飛び込みで来られる方はお断りすることもありますが、できれば治療したかったです…

      

要望
○現地での事務に関して
事務作業に追われてしまうと治療に当たる時間が減ってしまい、本来の目的を見失ってしまいます。後方支援の方もそのことを懸念し検討して下さっていますが、小塩先生がおっしゃって下さったように組織化が進めば現場は動きやすいのではないかと感じます。また、私を含めPCが苦手な治療家の方は多いかと思います。ボランティアに行く前にtwitterなど基本的なことを勉強してから行くべきだったと後悔しています。今後の方の参考までに…

 

 ③感想
本来、被災者の方を治療し少しでも彼らの負担を和らげることが目的であったはずですが、逆に皆さんに元気を沢山もらって帰って来ました。次回はもっと腕を上げこの地に戻ってきたいと思います。

 

《災害鍼灸マッサージプロジェクトより》

ご指摘ありがとうございます。

○現地での事務に関して
複数の現場に加え多人数となると、事務専門の方(コーディネーター)が必要になります。
被災者の方を雇う案も出ておりますが、資金不足もあり実現していません。
今後の課題ではありますが、「適材適所、人を配分するのも治療のうち」とご理解いただければ幸いです。

 

 

[3月26日-28日]                     河原直貴

 

書ける事は最初の報告でほとんど書いてしまったので、正直、あと何を書いたらよいものか悩んだ。 

もう宮城から戻り一ヶ月をゆうに過ぎている。当初、この試みがこれだけの大きなプロジェクトにまでなるとは思っていなかった。三輪氏はもちろんだが、後方のがんばりに寄るものが大きいと思う。

私は近年、あはき師として在宅医療の一端に関わってきた。そこでの経験は大きく生きたと思う。どういう点でというかと、医療チームの一端であるという自覚の問題についてである。鍼灸治療の魅力と強みは、単独であっても成り立ってしまう守備範囲の広さにあり、何でもやってやるぞという気概は大切だが、医療チームの一部として関わる上ではそれを面に出しすぎると障害になる可能性がある。こちらができる事を表明することはとても大切であるが、それよりも、全体として何を求められているのか、それを知ることが大切であると思う。その一つが「支援者の支援」であると見出し、取り組む今回のプロジェクトの意義はとても大きいと思う。

もしかしたら医療チームとして仕事をするということは初めてとなる鍼灸師も多いかもしれない。その場合、慣れない作業となるかもしれない。だがそれだけに、可能性がある事も感じている。
活動から遠く離れ、眺めているプロジェクトの全貌も、もはや私には掴みきれない。今、私にはメンバーの活動を見守ることしかできないが、どこまで広がっていくのか、可能性は大きいので楽しみではある。関心だけは持ち続けていたいと思う。

 

 [4月6日~8日]                                     大浦慈観
 
私は3日間の短期でしたが、岩沼市市民会館および名取市消防署・市役所にてボランティア鍼灸マッサージ治療の活動を行ってきました。3月11日の震災以来、自分がどんな関わり方をできるか考えてきましたが、当初は被災地では被災者の安全確保と物資の確保などの避難生活の確立に追われ、治療どころでない実情と考えられていましたので、様子を見守りながらまずは地元栃木県での福島原発事故避難者への支援活動から始めました。宇都宮市では鍼灸師会の仲間3名で3月20日から自主的に動き出し、避難所での鍼灸治療を開始しました。しかし4月3日になると避難者が格段に減少してき、治療の必要性も少なくなってきました。原発事故に対する情報がゆきわたり落ち着きを見せ、大勢いたいわき市からの避難者はほとんどが地元に帰り、南相馬市からの避難者が少数ながら残るといった状態になりました。同時に地元鍼灸師会からのボランティア治療参加者も増え、私の必要性もなくなったと感じました。

 

それでというには失礼ですが、以前より三輪氏たちの勇気ある宮城県での活動に注目していたこともあり、若い皆さんががんばっているのを応援したいと思うようになりました。原発避難者と違い、実際に肉親や友人を津波被害により亡くされた方々の中で、われわれ鍼灸師に何ができるのか実地で感じ行動したいとも思ったわけです。私の妻の参加している栃木県ボランティアネットワークでも、早い時期より現地に赴きボランティアの組織化に参加したり、物資や風呂桶を提供しにガソリン持参で往復している人もいましたが、そろそろ鍼灸マッサージという我々の技術が役立つ時期に入ったのに逡巡する必要はないと感じました。

 

  16年前の平成7年に起きた阪神淡路大震災の時、私は新米鍼灸師として単身神戸に赴きました。当時多くの鍼灸マッサージ師たちも、未曾有の災害にショックを受けボランティア治療に参加しました。私は初め活動を開始した地元関西の鍼灸師会の人たちが施術している所を訪ね参加しようと思いましたが、治療は円皮鍼を数個貼るだけで、勝手な治療は許されないことを知り、幻滅して単独行動することにしました。ボランティア登録をした上で、配属された小さな避難所の物資仕分けなどの作業をしながら、地図を片手に空き時間に近所の大きな避難所数箇所を巡回し、直接責任者と交渉して未熟ながら治療をさせてもらい、様々なことを考えさせられたものです。

 

今回の東日本大震災においては、三輪氏たちがいち早く現地に赴き地元社協と交渉の末、ボランティア治療に参加しやすいように準備と情報共有の作業を行ってくれました。先遣隊の活動情報を知ることにより、自分が短期間であれ現地で何をすべきか想定し準備することができたことは、大変大きいことだと思います。今回参加して、東鍼校でかつて鍼灸実技を教えた卒業生たちともバッタリ現地で会うこともできましたし、若い皆さんがこれほど積極的に自主的に動いていることに、かえって私も勇気づけられました。私は思うのですが、現地で何ができたかを細かく分析するよりも、実際に現地に赴き自らの経験として感じ考え行動して、避難所の被災者やそれを支援する方々と一緒になって自らの技術を生かす行動を実行したことは、今回のプロジェクトに参加した皆にとって貴重な財産となるだろうし、鍼灸界全体にとっても大きな力、宝となることと信じます。

 

今後、これをどのように繋げていくか、また今後に生かしてゆくのかは、私が心配することではもう既にないように思いました。滞在中、合い間に訪ねてみた仙台飛行場のすさまじい被災の爪跡も、刻一刻と片付けられ飛行機も離着陸しはじめていますし、東北新幹線も再開通するようです。避難区域でのわれわれの活動もニーズは大きく変化してゆくのでしょう。遅まきながら、鍼灸界の諸団体も動き始めるようですが、志ある個人を組織化して有効にいち早く現地でのニーズに対応させていったこのプロジェクトチームの活動は大きな意義があったし、今後もしばらくは変化するニーズに応えていく意義ある行動だと確信しています。 

 

 

 

  

4月5日-10日]                       太田智洋

 

被災者および支援者のケアをするべく、4/5から宮城県岩沼市に来ています。
現地に到着すると、
「まずは被災地を見に行ってください」と言われ、皆を車に乗せて海岸沖に向かいました。
途中までは何てことない田舎の風景。
とある場所から、景色がガラッと変わりました。
田んぼに乗り上げられた車、
散乱する衣類や家具、おもちゃ、
半壊した家屋が今にも倒れてきそうです。
海沿いの松の木のほとんどがなぎ倒されていました。
防波堤は5mを超えるものだったのに、津波は軽々と乗り越えてしまった。
頼りになるはずの防波堤も、今では崩れたコンクリートのかたまり。
くの字に曲がったボート。
「どうしたらいいんだ」
途方に暮れてしまいました。
被災地を視察し、感じたこと。
「我々に何ができるのか。役に立つなら、なんだってしてやる」
決意を新たに、現場に入りました。
被災地は徐々に日常生活に戻る人が増え、避難所から会社に行く人もいます。
食事も十分になってきました。
一つのおにぎりを、3人で分け合って食べていたそうです。
地震や津波によるストレス、心身的緊張状態が続き、被災者の方は大変疲れています。
さあ、忙しくなるぞ。

 

 

[4月13日-15日]                   小塩卓也 

 

今回緊急で物事が同時に動き出したので、マンパワーによる努力と根性の力技で運営する他ないと思います。現在、人に仕事がついている感じがするので、現場も後方もキャパのある人にどんどん仕事が増えていっているような気がします。今後は人に仕事をつけるのではなく、仕事に人をつけることが大切ではないかと感じています。
 今後ボランティアとして継続的に組織を動かすのであれば、努力と根性だけでは必ず限界がきます(努力と根性大好きですが)。そこで下記の様な対応が必要になってくるような気がしました。
 ①組織図を作成
 ②現在の業務(後方・現場)を洗い出し、簡素化・マニュアル化
 ③スリム化した業務を組織図の各ポジションへ振り分け
 ④各ポジションにおける責任所在の明確化
 ⑤組織図に従い、指示・報告及び情報交換の1本化

 現在、人が少ない中、人が集まってこんなことを考え整理する時間があれば、一人でも多くの患者さんを診るほうが優先されます。ですが、後方支援の方々の作業量、現場のリーダー・サブリーダーに治療以外の仕事が多いのではないかと感じましたので、活動される方々の活動環境が少しでも良くなればと思い、感想として書かせて頂きました。

 最後に、このプロジェクトを立ち上げられた三輪氏及び先遣隊の方々、現在もこのプロジェクトに参加協力されている方々へ敬意を払うとともに、参加させて頂いたことに感謝申し上げます。
 また、同時期に一緒に働けた仲間の方々へこの場をおかりして御礼申し上げます。

 

  

  

 

[4月5日-11日]                   奈良桂子

     

施術を受けに来られる方の状態については、堀さんからの報告にありましたので、私は、今後ボランティアに参加してくださる方へのメッセージを中心に報告したいと思います。

   

1. チームとしての意識ボランティアである以上、皆が同じように参加できるわけではなく、長期の人もいれば、1泊2日、夜行で来て夜行で帰るという人も少なくありません。そのため、日々メンバーが変わっていきます。その中で、最も長期にいられる人が現場のリーダーとなり、シフトを組み、担当場所を決め、訪問する場所への連絡から東京の後方支援チームへの報告もしています。活動場所も私が参加した時には、岩沼の市民会館だけでしたが、途中から隣町の名取市でも活動をすることになりました。(その後、又新たな活動場所も出てきているようです。)宿泊場所も、様々な支援者が入ってきだしていますので確保しにくくなっています。こうした状況の中では、初めて会った同志であっても、リーダーを中心に、お互いチームである、という意識がとても大事になってきます。 

たとえば、宿泊場所ですが、自分が確保した所を、別のスタッフに譲る、ということもありえますし、活動場所も日々変わっていきます。スタッフの体調によって急遽変更ということもあります。ミーティングが、かなり重要になりますし、お互いが助け合いながら、臨機応変に対処し、活動そのものを円滑に進めていくことが、とても大事であると思いました。  

 

2. 継続的に支援できるわけではない三輪さんが立ち上げてくださった、この岩沼での活動は、被災者の方達への施術も、もちろんしていますが、むしろ被災者を支援する方達(市役所の職員さん、消防署員の方達等)への施術、サポートを大事にしている点が、特徴だと思います。被災者の方達にとって、私たちはあくまで行きずりであり、ずっと継続的に関わっていけるわけではありません。鍼灸治療において、患者さんに寄り添うことはとても大事ですが、ボランティアにおいては、入り込みすぎない、手を出しすぎない、ということも考えなければならない、ということを、前任者の方達から教わりました。PTSDの観点からも、震災の経験を深く聞き出してはいけない、掘り下げてはいけない、ということが注意事項として引き継がれています。又、私たちが無償で施術することは、地元の鍼灸マッサージ師の方々の仕事を奪ってしまうことでもある、と教えられました。この点については、今三輪さんが、地元の鍼灸マッサージ師の方々に働きかけていますが、そうした意味からも、どこまで、どう関わるのか、現場の私達も考える必要があると思いました。被災者の方達に対しては、バイタルチェックをし、施術をしながら状態を聞き出すことで、脳梗塞の前兆等を見逃さないようにし、地元の保健師さんに報告をすることを大事にする、今回のこの活動はとても意味があり、大事な観点であると思いました。

 

3. 施術を受けない方達への配慮岩沼市民会館内に準備された鍼灸室では、2名しか施術することができません。そのため、施術者も1名ないしは2名です。それ以外のスタッフは、被災者の各部屋をまわり、ご希望があった時にマッサージを中心に施術していますが、施術を希望されない方もいらっしゃいます。ただ、そうした中に、寝ていることが多い方もいらしたので、避難生活が長引く中、施術を希望されない方のことも気にかけ、保健師さんに伝えていく必要があると思います。

 

4. その他かなり交通事情もよくなってきていますので、電車で現地へ行くことが可能になってきましたが、余震によって運行停止になることが多い、ということ、又、活動範囲が広がってきているため、移動手段としての車が重要になってきています。可能な方は、車で来て頂けると大変助かります。 最後になりましたが、今回岩沼には、ベテランの先生方も、入れ替わり立ち替わり参加して下さっています。先生方が、私達と全く同じ立場で、穏やかに、黙々と施術されている姿を見させて頂いたことは、私にとってとても貴重な経験でした。東京の後方支援チームの方達にも、大変お世話になりました。有り難うございました。今後も、私なりにできるお手伝いをしていきたいと思います。

 

 

 

[4月10日-13日]                    渡辺志穂 

 

今回、「災害鍼灸マッサージプロジェクト」へ参加出来た事を大変嬉しく思います。
立ち上げて頂き本当にありがとうございました。 

 

私は活動期間中、岩沼市民会館内を回り被災者の方々や市民会館の事務の方々を施術していました。ほとんどの方が頸肩部になんらかの反応があり、避難所での日々の辛さを感じ取られました。私は血圧をとらせて頂き「睡眠・食欲・便通」を聞く他はほとんど私からは話かけずに施術を行ってきました。被災者の方々がなにか話したければ話して下さるだろう、と感じたからです。実際、何人かの方々は震災のことを自ら話して下さいました。私は、ただ聞いて頷き、身近な事をお話ししてその場を離れました。そして、心配な方は翌日も顔をみせるようにして、様子を伺いました。マッサージや鍼をしていて、手ぬぐいを持参して正解とも感じました。被災者の方々は長引く避難所生活の中でなんらかの「変化」を求めています。私が持参した手ぬぐいは色彩豊かでユーモア性のあるものを持参していったからか、手ぬぐいに関して感想を述べてくださる方が何人かいらっしゃいました。あと、服の上・素肌の上からでも、相手への礼節につながるため、タオルや手ぬぐいを持参されることをお勧めします。施術の最後に「お邪魔しました。みせて頂きありがとうございました」とお礼を言い、各家族の居住スペースの玄関と思われる場所から出てきました。いつも通り、相手に「そくする」ことを心がけて施術を行いました。 

 

 

後続の参加者のために聞いておきたいのですが、私が岩沼市民会館の鍼灸室にいた時、どちらの誰さんかは聞き取られなかったのですが、ボランティア活動を取材するカメラマンの方がみえて「鍼灸の治療風景を写真に収めさせて欲しい」と要望されました。私はその時、神経質そうな被災者様をみていたので「治療時に肌を見せることがあるので、撮影はご遠慮下さい」と部屋の外にて丁重にお断りをしました。あとで思い出したのですが、こういう取材は他の鍼灸師が知る機会になるので被災者様にも許可を頂いて撮影をしてもらった方が良かったのかな、という思いもあります。後続の参加者がそのような事に出くわした時、どのような対処を取ったら良いのでしょうか。 


あと感じたのは、岩沼市民会館は早期に切り上げたほうが良いかもしれません。鍼・マッサージを本当に受けて頂きたい方、まだ受けていらっしゃらない方は多数お見えになるとは感じますが、ほぼ常連被災者様が施術の割合を多く占めてきています。「依存」にならないためにも今日はこの地区、と決めて3,4日に一回受けて頂くようにするといいかもしれません。引継ぎのどこかで、キリをつけて周知するのがよいかもしれません。ボランティア期間中に、施術のためだけでなく現地での事務・雑務も多いと感じた為今度は裏方で参加したい、と感じました。調整がつくようならば、また参加表明をしたいと思います。 

   

 

 

[3月31日-4月9日]                             小河原 信雄     

 

          「災害鍼灸マッサージプロジェクト」の目指す未来形

 

今回の災害で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

 

私は3月31日夕方より4月9日の朝まで足掛け10日間にわたり、この「災害鍼灸マッサージプロジェクト」に参加しました。

 

そして現在進行形のプロジェクトに対して、その終わり方、目指すべき未来形を述べてみたいと思います。

 

なぜ単なる感想文や体験記ではなく、終わり方・未来形を述べようと考えたのかと言えば、実際に参加している私が、プロジェクトが目指しているものを明確につかみきれていないという感覚を持ちながら現地で活動していたからです。そして現地での活動が終わる頃、このプロジェクトの持っている可能性の大きさに気付いたからです。

 

このことは本来このプロジェクトの代表たる三輪正敬氏より語られるべきであるが、三輪氏は現在多忙を極めています。おそらく三輪氏も、このような内容を皆様にお伝えしたいと望んでいると私は思います。ただ、その余裕が本当にありません。

 

そこでまことに勝手ながら、三輪氏になんの相談もなくこのような話をさせて頂くことにしました。ですから、これはあくまで私見であり、三輪氏やプロジェクトの今後の方向性を規定するものではないと先にお断りしておきます。ただ、三輪氏はこの内容とそれほど遠くないことを目指していると私は勝手に確信しています。

 

私が参加したのは3月31日からということで、このプロジェクトが実際に宮城県岩沼市で活動を始めてから一週間も経過していなかった時期でした。このプロジェクトに参加した理由は、避難所にいらっしゃる被災者の方々にたいして治療が出来ればという思いからでした。実際被災者の方々に対する治療は毎日行われて、それは現在も継続されています。

 

また活動拠点としている岩沼市民会館にいらっしゃる職員の方々に対する治療は、この時点でも行われていました。とはいえ、鍼灸マッサージ師が事務室へ行き、患者がいすに座った状態で主に頚肩部のマッサージをするという活動でした。

 

そこに4月1日より岩沼市役所にて職員への治療という活動が開始され、ここでは保健室にてベッドを使用して全身的な治療が可能となりました。さらに4月6日からは、隣接する名取市において活動が開始され、名取消防本部では消防隊員への治療、同じく名取市役所では市職員への治療と活動範囲を拡大していきました。こちらでも治療用のベッドを用意し全身的な治療を行っています。

 

このような形で、活動は避難所にいる被災者の方々に対するものと、被災者の方々を支援している方々(市職員や消防隊員)に対するものと、大きく2つに分けられることになりました。

 

また、避難所の被災者の方々が、仕事や家の片付けなどで日中外出することが多くなり、我々の活動時間内に避難所には人がいない状態が続いた時期と、支援者(市職員や消防隊員)に対する治療が軌道に乗った時期とが重なり、私は複雑な思いを抱いていました。ただ、誤解を恐れずに言えば、支援者の方々は被災者の方々と同等もしくはそれ以上に疲弊していました。震災以来、24~36時間連続勤務は当たり前、その勤務明けのわずかな休みも市役所の床で毛布に包まって寝て、目が覚めると同時に業務を再開するという生活を送っている方も、珍しいことではなかったのです。

 

このような境遇にある支援者への治療という支援を大きく打ち出していた事が、このプロジェクトの特徴のひとつとして挙げられると思います。

 

そして、もうひとつの大きな特徴は、あはきワールドを通じて全国に対し、鍼灸マッサージ師によるボランティアを募り、継続的に運営している点です。

 

これまで災害時における鍼灸マッサージ師によるボランティアの多くは、個人レベルでの活動によるものでした。つまり、志ある個人が避難所において一時的もしくは一定の期間にわたり治療を行うといった活動がほとんどだったと思います。

 

また、団体として活動する場合であっても、特定の事業所や地域の鍼灸師会マッサージ師会などによる、1日から数日間の活動のものがほとんどだったと認識しています。それに比べ、このプロジェクトはとにかく鍼灸マッサージ師であれば団体や地域などを問わず募集をして、そして現地で活動しています。まだ3週間ほどではありますが、同じ避難所に毎日常駐する形態で継続的に活動している、この継続的に行うことそのものに非常に意味があると思います。

1日から数日単位の活動では、他の医療従事者(医師・看護師・保健師など)との関係を構築するのは非常に困難です。他の医療従事者との連携がうまくいかないと、我々が気付いた危険な状態にある患者が、見逃される可能性が高くなります。現在岩沼市民会館においては、毎日定期的に常駐している保健師との連絡会が行われ、鍼灸マッサージ師が気付いた経過観察が必要もしくは緊急性のあるリスクの高い患者を報告し、大きな疾病への予防に一役買っていると思うのです。

 

このような日々の活動が、他の医療従事者の信頼を得ることに繋がっていると思います

 

そしてもうひとつ他の医療従事者の信頼を得るのに役立っているのが、記録(カルテ)の存在です。

緊急時であるので簡易式の場合もありますが、必ず治療の際には症状などの確認や記録をし、また状況によっては血圧や体温を測定してそれを記録しています。これらの記録作業によって、ある程度ではありますが、ボランティアスタッフが入れ替わっても継続的な観察が可能になっているのです。また、この記録はプロジェクトが終了を迎えた後に大きな意味を持つはずだと、私は確信しています。

 

さて、以上のことを踏まえて、このプロジェクトが目指すべき終末を私なりに考察して見ようと思います。

 

このプロジェクトは5月7日をもって現地活動を終了しようとしています。ここで一番問題となってくるのが、現地で治療を無料で受けていた被災者及び支援者の方々の、今後の治療をどのようにするかです。これにはやはり、地元の鍼灸師会マッサージ師会や事業所などに引き継いでもらうことが一番だと思います。そのために宮城県の鍼灸師会マッサージ師会、そして行政への働きかけを現在おこなわれています。この場合今まで無料で受けていた治療は、本来の有料での治療となりますが、鍼灸・マッサージに対する保険を適用してもらえば安価に抑えることが出来ます。しかしそのわずかな金額でも、被災された方々とって大変な負担になるのは間違いありません。そこで、現在病院などでの窓口負担がない状況を、鍼灸・マッサージ保険も対象にし、当面自己負担なしで治療が受けられるならば理想的だと思います。この事はひいては地元の鍼灸・マッサージ師たちの新たな雇用へと繋がっていくと思います。

 

また、市職員や消防隊員などに対する治療においては、少なくともこの非常時体制がある程度落ち着くまで、ある程度の補助金を出す方法もあると思います。 我々も同じですが、支援者が健康でなければより良い支援はできません。結局、サービスを受ける被災者の方々の為になるのです。

 

今回の活動において、初めて鍼灸マッサージを受けたという方が多く、特に鍼灸に対してはとても多かったです。その方々に対して鍼灸マッサージを知っていただく機会となった意義は、大きいと思います。また、実際受けてみたらとても良かったという声も聞くことが出来ました。今後は現地での需要拡大に繋がるだろうと思います。

 

次は「災害鍼灸マッサージプロジェクト」チームをどうすべきかについてです。

 

理想の形は、NPO法人として今後につなげていくべきだと、私は思います。少なくとも今回の経験を取りまとめ、文書化・マニュアル化して残すのは必要だと考えます。日本は神代の頃からの地震大国であり、残念ながらそう遠くない将来に、必ずどこかで大地震が起きるでしょう。

 

また地震やその他の災害が起きた時に、鍼灸マッサージ活動による支援をと考える人にとって、このマニュアルの有無は展開のスピードや要望への対応がまったく違うはずですし、行政機関や医療機関に理解してもらうのもスムーズになると思います。

 

今回のプロジェクトはほぼゼロからのスタートであったため、大変な苦労を伴っているのが現実です。ここで今行っているカルテを中心とした記録が生きてくるので、とても重要な作業だと思います。またNPO法人となれば、災害時における鍼灸マッサージ活動に対するコーディネーターの勉強会などを後押しする活動にも、力を入れていくこととなるでしょう。平時よりこのような活動の知識を持った方を広く養成しておけば、いざ災害が起きた時に大きな力を発揮すると確信します。

 

また、このプロジェクトは活動に対する募金を集めることで、ボランティア参加者の負担を軽減するよう目指しています。これはボランティアという趣旨より反するという考え方も当然あると思います。私が現地でであった他の医療従事者は、すべて病院や自治体などから派遣されていました。つまり彼らは仕事として現地へ来ているのです。ニュースなどではボランティア活動として現地へ赴く医療従事者も見かけますが、実際現地にいる医療従事者の多くはあくまでも仕事で業務についているわけです。

 

我々鍼灸マッサージ師がほとんどは1人から数人の事業所に属しています。本業を休んで活動することは、給料が目減りしたり事業所収入が入らなくなる場合があります。その為長期的な活動は難しくなると思います。ですから活動のすべてではなくても、足がかりになるぐらいの経済的補助は積極的に行っていくべきではないかと思うのです。

 

こうした仕組みづくりをすることで、最終的に鍼灸マッサージ師の社会的地位向上に繋がると信じています。

 

以下は私が考える未来像です。皆様も想像してみてください。

 

 

20××年×月×日、○県を中心とした大震災が発生。

 

同日、「NPO法人 災害鍼灸マッサージプロジェクト」が被災地域への支援活動を開始する。

 

鍼灸師会・医療機関と協議する中で、すでにある過去の活動実績から支援を提案。

 

被災地域において必要不可欠な医療チームとして認知され、NPO職員が現地へ向かい被災地域の行政や医療機関との調整に入る。

 

これにより正式な要請を受けて鍼灸マッサージ現地活動チームを派遣する。

 

チームの構成は4~8人、鍼灸師会やマッサージ師会、また各自治体に臨時に雇用されたものが中心となり、ボランティアで活動したものがこれに加わる。

 

リーダーは事前に研修をうけた者が活動を担う。

 

参加者は経済的負担を心配せず活動へ入ることが出来る。

 

ひとチームの活動は4・5日間で次のチームと交代していくことで、質の高い支援を維持する。

 

活動内容は、被災者ならびにその支援者に対する治療を行い、常に他の医療従事者との連携を図る。

 

一定期間経過後には、被災地域の治療院などの再開状況を見ながら、鍼灸師会マッサージ会、事業所へ引継ぎを徐々に行っていく。

 

このような活動により、被災前よりも現地での鍼灸マッサージに対する理解・ニーズが向上した状態で、この災害鍼灸マッサージ支援活動は終了する。

 

いかがでしょうか。以上、私が考える災害時における鍼灸マッサージ師にできる、活動の形です。現状はこのような未来形にはまだまだ遠く、解決しなければならない案件がとても多いです。そしてなにより、我々鍼灸マッサージ師の医療従事者として技術や知識の向上が、不可欠と考えます。

 

今は、このような未来形に至る可能性を秘めた活動に参加できたことを、是非皆様に気付いて欲しくて、長くなりましたがここで述べさせていただきました。

 

そして最後になりますが、この瞬間もプロジェクトを支えてくださっているすべての皆様へ、心から感謝を致します。

 

 

 

   [4月6日-9日]                    養母忠道 

 

  ●衣食住を自力でまかなうことが必要。 

    衣。4月の現地入りだったので、厚着の必要はさほどなかったが、3月中は

    重装備が必要だったかも。 

    食。食堂、コンビニ等が営業していたので、不自由はしなかったが、これも

    3月中だったらわからない。避難所の食事は被災者の物であり、ボランティア

    は摂ってはまずかろう。…カレー、食べたかったけど。 

    住。ボランティアは避難所に泊まるべきではない。避難所は被災者の物である

    から、ボランティアが泊まると混乱するから。やむを得ないときは、しょうが

    ないか。

 

  ●活動時期、活動場所、活動人員をどうするのか参考になった。被災地に入った

   海外の救助隊みたいにさっと来て、決まった範囲を捜索して、すぐ引き上げる

   のか、アフガニスタン駐留のアメリカ軍みたいに長くいるのか…。

 

 

  ●現地のリアルタイムの情報が欲しい。食料事情や避難所の状況とか。テレビは

   復興の進んでいないところを好んで流しているような気がする。

 

  

  ●白衣は絶対に必要。これを着ていたからスムーズに治療に入れたと思う。

 

 

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[4月9日-10日]                    池田裕治

 

面識もない施術者のカルテをみて、施術しなければならなかったことに関して感想を述べようと思う。 

 

問診のことについて。 しっかり問診を行って、その結果をカルテ(使っていたカルテは情報が記載し難い)に書けば、次の施術者に情報が伝わりやすいのではないだろうか。 

 

例えば、 

 

既往症・震災後の身体の変化・主訴・二回目以降ならば前回施術を受けての変化等は必ず書くようにすれば、次の施術者への参考になると思う。 

 

そのために出来れば、カルテの記載事項を検討されることが好ましいと思う。 

 

また、消防署員の施術も行ったのだが、彼らはほとんどが疲労を訴えていた。これは当然である。 休みも少なく、過酷な労働を強いられているのであるから。 彼らに話を聞くと震災当時といまでは作業内容が変わってきているようである。  

 

 

例えば、震災当初は長時間にわたって水の中での瓦礫の撤去作業が多かった。 いまは遺体の探索等が主であるとの事。 彼らは聴かなければあまり話そうとしない。 ただ単に疲労としか言わないが、作業内容やその環境で肉体にかかる負担はかわってくる。 それを聴いてどこが疲労しているだろうかと考えるのも施術者の役目ではないだろうか。余談ではあるが、難経四十九難に「久しく湿地に座し、強力して水に入ると則、腎を傷る」とある。 これは、今回の消防署員たちの作業に中らないだろうか? ならば、休みの取れない過酷な労働に加えてさらに腎が虚していることも考えなければならないだろう。 

 

短い時間で、施術をしなければならない不利な面もあるが、複数の施術者のリレーによってひとりの患者がある程度継続的に施術を受けられると言う有利さもあるで、そこを何とか生かせる方法を考えていただければ幸いである。

以上、拙文であるが気がついたことを思うままに記す。

 

 

 

[4月4日-7日]                堀 雅史 

 

●岩沼市民会館鍼灸室で施術した際に気付いた、受療者の特徴とその対応について報告します。 

 

1.冷えている人が多い
 

私がボランティアに参加した4/44/7は徐々に気温があがりはじめてきた時期でしたが、ほとんど患者さんは身体が冷えていました。とくに背腰部、下肢。手を触れるとしんしんと冷気が伝わってくるようであったので、その部分には灸をよく使いました。換気の問題のため、透熱灸を数壯すえる程度でしたが、それでもそこそこ暖まったようでした。やはり、床に毛布を敷いているだけなので、どうしても下半身は冷えてしまうようです。 

 

2.便秘が多い
 

避難者の方の食事は自衛隊の皆さんによる炊き出しが主となります。メニューとしてはどうしても野菜が少なくなってしまい、繊維質が不足してしまうとのことでした。便通のチェックはほとんどの受療者に行っていましたが、1週間近くでないという人も珍しくなかったです。鍼灸、およびマッサージで胃腸の蠕動運動を促し、少しでも便秘の改善に役立てればと思います。 

 

3.高血圧が多い

 

 

血圧は初診患者は必ず、再診患者でもなるべく毎回測定するようにしていましたが、平均的に高い人が多かったです。もっとも、一人に対する施術時間が短いため、充分な安静時間を確保せずに測定していることや、手関節部での簡易測定の場合もあったので、高めの測定値になったり、誤差が生じてしまう要因はありました。ですが、それを差し引いても高く、収縮期血圧140mmHg前後、拡張期血圧90前後(つまりWHOの基準で正常と軽症高血圧の境界値)の方が少なくなかったのです。もともと高血圧で服薬治療しているという方もいれば、震災後に高くなったという方もいました。おそらく、過酷な状況下のため全身的に交感神経優位になっているのではないかと思われます。鍼灸マッサージで一時でも副交感優位の状態をつくることには意味があると思います。血圧などのバイタルサインについて、注意を要する方については、速やかに保健師さんに報告することが望ましいです。避難所に来てから、降圧剤を服用しはじめたことで、改善がみられたという方もいました。 

 

 

4.床座位による腰への負担

 

 

お年寄りの避難者で、一日の大半を床に坐って過ごす方がいました。腰痛を主訴に鍼灸を受けにいらしたのですが、やや炎症症状がつよいようでした。痛みのため一挙一動が困難で、それがしばらく続いているとのこと。話を聞くと、その方はホールの床に毛布を敷いて生活されているとのことでした。日中も外を出歩くことなく、座っている時間が長いらしいです。一日中、床に座っていたら腰椎前彎減少し、椎間板は圧迫され続けることになります。腰痛が治らないのも無理はありません。私はその方に、床ではなくイスに座るよう提案しましたが「他の皆も腰が痛いのを我慢しているのに、私だけ特別なことはできない」といわれた。なるほど、ごもっともです。仕切りのない集団生活のため、一人だけ周囲と違うことをすれば、目立つし、それがその場の人間関係に影響してしまうことも充分考えられます。そういうなかで、プライベートな時間を確保できる鍼灸室の存在意義は大きいのでしょう。その方の腰痛は、鍼灸室の中で決着をつけるしかないと覚悟し、3日連続の治療でなんとか軽減させるところまで持っていくことができました。



5.急性の外傷もくる


 

清掃作業、片付け作業に行かれている人は、その作業中に思わぬケガをすることもあります。屋根から転落し頚を痛めた人、重量物を運び腱板炎になっている人、もともとあった変形性膝関節症の炎症が再燃してしまう人、などなど・・・。同じ運動器系愁訴でも避難所内だけで生活している方の慢性病とは、全く対処法が異なる急性疾患の方もきます。施術前の病態把握が重要です。





まとめ
鍼灸マッサージは、特殊な機材を要することなく、持ち運び可能な治療道具さえあれば、どこでも施術することが可能です。また幅広い愁訴に対応できるため、物資の不足がちな災害現場における有用性は非常に高いと思われます。その有用性を活かすためにも、鍼灸マッサージの適応と不適応を鑑別し、不適応であった時に適切な対応ができることが重要だといえるでしょう。限界の範囲を知らなくては、持ち味を生かすころはできないからです。

 

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